浮気抑制薬
「ねえ、これで本当に大丈夫なのよね」
若い女が錠剤が入った瓶を覗きながら言った。
「ええ、理論的には」
相手の、やはり若い女が答えた。
「理論的にはって、ダメな場合もあるの?」
やや咎めるように最初の女が聞いた。
「もし、あなたの旦那さんが既にあなたに愛着を感じてない場合は、効果はないわね。この薬は愛着を強めるものだから」
女の様子を気にも止めず、相手は答えた。
「浮気防止の薬じゃないんだ」
少しがっかりしたように薬を見つめる女の手には高価な指輪が光っていた。裕福な若奥様といういでたちだ。
「げっ歯類で、一夫一婦制を取るものと乱婚制のものとの、ホルモンや脳構造の違いの研究は進んでいるけど、人の場合はまだそこまで行ってないわ。研究が進んだら困るっていう人がいるからかしらね」
ちょっと笑って答えている女は白衣姿。二人の姿に共通点はなかったが、仲は良さそうだった。
「何でみんな一生懸命研究しないのかしら。助かる人がいっぱいいるのに」
腹を立てている女の名前はヤマギ、相手はクジョウといった。ヤマギはいわゆる玉の輿に乗った。相手は資産家の息子で、高額の収入を得る職についていた。さらに顔も性格もいい。おまけに背まで高かった。
多くのライバルを蹴落とし、妻の座を勝ち取った。しかし、敵はそのくらいで攻撃を緩めないだろうということは、彼女にはわかっていた。ディフェンディングチャンピオンとしては家庭に収まってしまった分、外の情報が入りにくい。どうのような敵がいるのか分からなくなっている。
懸命に子供を作ろうとしているのだが、二人共問題がないにもかかわらず、まだ授かってはいなかった。
そんな毎日でヤマギは日々不安に苛まされるようになった。が、夫の浮気を疑って、かえって夫の気持ちを離れさせるような愚か者ではなかった。彼女には頼れる友だち、クジョウがいたのである。
「じゃ、これから毎日、一錠づつ夫にこの薬をやってみるわ」
女は期待を胸に友達の元を後にした。
数ヶ月後、ヤマギは再び友達のもとにやって来た。
「とにかく、彼は変わってしまったの。今まではそんなに物を大切にする方じゃなかったのに、安っぽいつまらない物でも取っておくようになったわ」
不満気にクジョウに夫の様子を報告した。
「それは薬が効いてるからよ。言ったでしょ、愛着を強めるって」
「効き過ぎよ。私から見たらゴミにしか見えないものなのに、捨てようとすると怒り出すのよ」
手を揉みしだき、部屋をウロウロしながらヤマギはしゃべった。
「あら、そう」
友だちのそんな様子に、クジョウは幾分困った顔をして言った。
「今では部屋が狭くて狭くて。彼、前からよく本や雑誌を買ってはいたんだけど。今では、新聞のチラシやら、お菓子の空き箱やらなんでも集めているみたい。とにかく酷いの」
「それじゃ、薬を止めてみたら」
そう言ったクジョウにヤマギは詰め寄った。
「そしたら前のように戻る?」
「ええ、愛着心が薬で強められているだけだから、薬の投与をやめれば元に戻るはずよ」
「じゃ、今集めているものは?」
「いらなくなって捨てるんじゃない」
「私は?」
「えっ?」
クジョウは驚いた。ヤマギがそんなにも夫に捨てられる不安を抱えているとは思いもよらなかった。
「何、馬鹿言ってんのよ。自分の妻と新聞チラシを一緒に考えてるわけないじゃない」
「本当に?」
ヤマギは真剣な目で相手を見た。眼の奥に不安が渦巻いている。
「大丈夫よ。それでも心配なら、薬は飲ませ続けるとして、量を減らしてみましょう。多分、作用が弱まるはずだわ」
「そうしたら、ゴミのようなものは捨てる?」
「ええ、薬で増強されていた愛着心が弱まるはずだから、現在溜め込んでいるもののいくつかは手放すと思うわ。多分愛着の薄い順にね」
「分かった、やってみる。それじゃ、量を減らした薬を頂戴」
クジョウから薬を受け取り、ヤマギは帰っていった。
しばらくして、薬の量が適当だったのかを確かめるため、クジョウはヤマギに連絡した。しかし、電話では何か要領が得なかった。明らかに言葉を濁している。クジョウは気になってヤマギの家へ出向いた。
家の中に案内してもらったが、そこら中にゴミのようなもので溢れていた。
「薬の量の減らし方が足りなかったかしら」
クジョウが不思議がって言った。するとヤマギはうつむき加減で、薬の量は以前のままにしていることを白状した。
「だって、量を減らして、最初に私が捨てられたら。彼が私のことはゴミよりも愛してなかったって証明されちゃうのよ。そんなこと耐えられない」
ヤマギの力説を軽く受け流し、クジョウが言った。
「でも、この様子だと他のことにも影響出ていない。旦那さんはちゃんと会社に行ってる?」
「ええ、毎日会社に行ってるわ、首になったんだけど」
「はっ?」
驚くクジョウにヤマギが説明した。
「なにか切り捨てなくちゃいけなかった取引先をそのままにしたらしくて、会社に損害を与えてしまったの、それもかなりの額で。それで解雇されたんだけど、彼、どうしても会社を離れられないようで、毎日会社のビルの前まで行ってるみたい」
これはいけない、とクジョウは思った。このままではこの二人は駄目になる。
「そんなんじゃ、せっかくあなたが夢見てた生活とはかけ離れてしまってるじゃない。大丈夫、彼はあなたを捨てたりしないから、今直ぐ彼に薬をやるのをは止めなさい!」
強くヤマギに迫ったが、やはり自信がないのか何やら言い訳に終始した。
ヤマギの家を後にし、クジョウは決心していた。現在、研究中の執着を断つ薬、あれをヤマギに飲まそう。結局、ヤマギが彼の妻の座に固執しているから悪いのだ。二人に本当に愛情があるなら、普通の夫婦としてやってけるはず。さて、どうやって騙してヤマギに薬を飲ませるか。クジョウは熱心に考えていた。
結論として、ヤマギ夫婦は破滅した。家を売り、貧しい生活をしているという。クジョウは執着を断つ薬をヤマギに与えられなかった。いや、与えようと思わなくなったのだ。研究者の常として、クジョウが自分で執着を断つ薬を飲んで試したからである。執着を断つ薬は確実に効果があった。
終わり
若い女が錠剤が入った瓶を覗きながら言った。
「ええ、理論的には」
相手の、やはり若い女が答えた。
「理論的にはって、ダメな場合もあるの?」
やや咎めるように最初の女が聞いた。
「もし、あなたの旦那さんが既にあなたに愛着を感じてない場合は、効果はないわね。この薬は愛着を強めるものだから」
女の様子を気にも止めず、相手は答えた。
「浮気防止の薬じゃないんだ」
少しがっかりしたように薬を見つめる女の手には高価な指輪が光っていた。裕福な若奥様といういでたちだ。
「げっ歯類で、一夫一婦制を取るものと乱婚制のものとの、ホルモンや脳構造の違いの研究は進んでいるけど、人の場合はまだそこまで行ってないわ。研究が進んだら困るっていう人がいるからかしらね」
ちょっと笑って答えている女は白衣姿。二人の姿に共通点はなかったが、仲は良さそうだった。
「何でみんな一生懸命研究しないのかしら。助かる人がいっぱいいるのに」
腹を立てている女の名前はヤマギ、相手はクジョウといった。ヤマギはいわゆる玉の輿に乗った。相手は資産家の息子で、高額の収入を得る職についていた。さらに顔も性格もいい。おまけに背まで高かった。
多くのライバルを蹴落とし、妻の座を勝ち取った。しかし、敵はそのくらいで攻撃を緩めないだろうということは、彼女にはわかっていた。ディフェンディングチャンピオンとしては家庭に収まってしまった分、外の情報が入りにくい。どうのような敵がいるのか分からなくなっている。
懸命に子供を作ろうとしているのだが、二人共問題がないにもかかわらず、まだ授かってはいなかった。
そんな毎日でヤマギは日々不安に苛まされるようになった。が、夫の浮気を疑って、かえって夫の気持ちを離れさせるような愚か者ではなかった。彼女には頼れる友だち、クジョウがいたのである。
「じゃ、これから毎日、一錠づつ夫にこの薬をやってみるわ」
女は期待を胸に友達の元を後にした。
数ヶ月後、ヤマギは再び友達のもとにやって来た。
「とにかく、彼は変わってしまったの。今まではそんなに物を大切にする方じゃなかったのに、安っぽいつまらない物でも取っておくようになったわ」
不満気にクジョウに夫の様子を報告した。
「それは薬が効いてるからよ。言ったでしょ、愛着を強めるって」
「効き過ぎよ。私から見たらゴミにしか見えないものなのに、捨てようとすると怒り出すのよ」
手を揉みしだき、部屋をウロウロしながらヤマギはしゃべった。
「あら、そう」
友だちのそんな様子に、クジョウは幾分困った顔をして言った。
「今では部屋が狭くて狭くて。彼、前からよく本や雑誌を買ってはいたんだけど。今では、新聞のチラシやら、お菓子の空き箱やらなんでも集めているみたい。とにかく酷いの」
「それじゃ、薬を止めてみたら」
そう言ったクジョウにヤマギは詰め寄った。
「そしたら前のように戻る?」
「ええ、愛着心が薬で強められているだけだから、薬の投与をやめれば元に戻るはずよ」
「じゃ、今集めているものは?」
「いらなくなって捨てるんじゃない」
「私は?」
「えっ?」
クジョウは驚いた。ヤマギがそんなにも夫に捨てられる不安を抱えているとは思いもよらなかった。
「何、馬鹿言ってんのよ。自分の妻と新聞チラシを一緒に考えてるわけないじゃない」
「本当に?」
ヤマギは真剣な目で相手を見た。眼の奥に不安が渦巻いている。
「大丈夫よ。それでも心配なら、薬は飲ませ続けるとして、量を減らしてみましょう。多分、作用が弱まるはずだわ」
「そうしたら、ゴミのようなものは捨てる?」
「ええ、薬で増強されていた愛着心が弱まるはずだから、現在溜め込んでいるもののいくつかは手放すと思うわ。多分愛着の薄い順にね」
「分かった、やってみる。それじゃ、量を減らした薬を頂戴」
クジョウから薬を受け取り、ヤマギは帰っていった。
しばらくして、薬の量が適当だったのかを確かめるため、クジョウはヤマギに連絡した。しかし、電話では何か要領が得なかった。明らかに言葉を濁している。クジョウは気になってヤマギの家へ出向いた。
家の中に案内してもらったが、そこら中にゴミのようなもので溢れていた。
「薬の量の減らし方が足りなかったかしら」
クジョウが不思議がって言った。するとヤマギはうつむき加減で、薬の量は以前のままにしていることを白状した。
「だって、量を減らして、最初に私が捨てられたら。彼が私のことはゴミよりも愛してなかったって証明されちゃうのよ。そんなこと耐えられない」
ヤマギの力説を軽く受け流し、クジョウが言った。
「でも、この様子だと他のことにも影響出ていない。旦那さんはちゃんと会社に行ってる?」
「ええ、毎日会社に行ってるわ、首になったんだけど」
「はっ?」
驚くクジョウにヤマギが説明した。
「なにか切り捨てなくちゃいけなかった取引先をそのままにしたらしくて、会社に損害を与えてしまったの、それもかなりの額で。それで解雇されたんだけど、彼、どうしても会社を離れられないようで、毎日会社のビルの前まで行ってるみたい」
これはいけない、とクジョウは思った。このままではこの二人は駄目になる。
「そんなんじゃ、せっかくあなたが夢見てた生活とはかけ離れてしまってるじゃない。大丈夫、彼はあなたを捨てたりしないから、今直ぐ彼に薬をやるのをは止めなさい!」
強くヤマギに迫ったが、やはり自信がないのか何やら言い訳に終始した。
ヤマギの家を後にし、クジョウは決心していた。現在、研究中の執着を断つ薬、あれをヤマギに飲まそう。結局、ヤマギが彼の妻の座に固執しているから悪いのだ。二人に本当に愛情があるなら、普通の夫婦としてやってけるはず。さて、どうやって騙してヤマギに薬を飲ませるか。クジョウは熱心に考えていた。
結論として、ヤマギ夫婦は破滅した。家を売り、貧しい生活をしているという。クジョウは執着を断つ薬をヤマギに与えられなかった。いや、与えようと思わなくなったのだ。研究者の常として、クジョウが自分で執着を断つ薬を飲んで試したからである。執着を断つ薬は確実に効果があった。
終わり
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