前書き そんな時代
ネットの普及により、それが画像であれ音楽であれ、小説、詩など文学関係であれ、誰でもが自分の作品を簡単に発表できるようになった。その為に、大量の作品がネットを巡っていて、一つの狭い分野、例えば現代詩のようなものでもすべての発表作品を一人の人間が漏れ無く鑑賞することは不可能となった。
このことによって一番弊害を受けたのは出版責任者とそれ関係の賞の審査員だった。彼らはその分野の専門家である事は間違いないのだが、さすがに海外のマイナーな作品までは目が行き届いていないことが多く、盗作を見抜けずに商品化したり、賞を与えたりすることがほうぼうで見られた。
作者は故意に盗作するのだから咎められるのは当たり前としても、その盗作を出版したり、賞を与えた人間までもがひどく批判され地位や名誉が危うくなることも多かった。
たしかに盗作を排除する義務は出版社や賞の選考委員には少なからずあるのだろうが、不可能なことはどうしたって不可能なのだ。もしも完璧を期そうと思うなら、商品化や賞の選考にかなりの時間が必要となってしまう。そういった現状を受け、出版社や賞の選考委員たちは、作品に対し、"出来る限り調べた結果では盗作とは思えない、なので出版した、賞に選んだ"、などと言い訳じみた一文を添えるのが通例となった。
また、製作する側の方でも盗作などしていないのだが、大量に作品が横行しているために似通ってしまっているものが多数出てくることになった。盗作を疑われた人は盗作でないことを証明しろと迫られるのだが、ないことを証明することは不可能なのだ。
そんな状態が暫く続き、関係者は頭を痛めていたのだが、科学の発達がこの問題の解決の糸口を示した。人が網膜に映した映像を記録する装置ができたのだ。その記録は外部に溜め込むことも可能で、人が生きている間に見たすべての映像を記録することができた。それに加え、体にマイクを埋め込むことで、その人間がどんなものを見聞きしたかを証明できるようになった。この個人のプライバシーに関わるデータは簡単に閲覧することはできず、当然、改竄も消去も出来ないようになっていた。そのためその装置を埋めこまれてから以降は、何を見聞きしていないかも分かるようになったのだ。
意外にもこの装置は歓迎され普及し、新生児から装着することが一般的になった。そういったシステムの御蔭で、盗作問題は解決するかに見えた。然るべき権限の者が作者の見聞のデータを検索して、類似の作品に触れていないかを調べればよかったからである。
しかしながら、いざ実行してみるとこれは盗作問題をさらに複雑にしてしまった。人間は物を見たり聞いたりするときにはそれを意識しているわけだが、装置の記録はそれとは関係なく、眼の前の風景、発生した音を全て記録していた。そのため作者が意識していないにもかかわらず目に入ってしまった絵画、聞こえてしまった音楽などが類似の作品として引っかかることがあったのだ。そしてこういった作品は意識的ではないにしろ、盗作だろうということになり、作者本人も認めざる得なかった。無意識にしたことを否定する根拠がない。
そこでさらに科学は発展し、自分が見たくないもの、聞きたくないものを排除する装置ができた。視神経と聴覚神経にフィルターが施され、自分が意識したもの以外、情報が脳まで達しないようにしたのだ。
さすがにこの装置は一般に普及することはなく、自分の子どもを芸術家として育てたいと思った両親がその子に手術を施すくらいだった。
そんな訳で、神経にフィルターを装備した人間は数えるほどしか存在せず、その人達が成長し、芸術作品を作るようになったとき、人々は大変な期待を持ってそれを迎えた。何十年ぶりかの盗作の疑いようのない作品なのだ。
それらの作品は世界中で読まれ、聞かれ、鑑賞された。最初人々は感心の声を上げたが、それもつかの間、やがて人々は興味を失っていった。出来が良くないのだ。
どうやら芸術的作品には無意識の情報が欠かせないらしかった。そのため、今では神経のフィルターは皆取り除かれ、盗作問題は消滅した。盗作だろうがイイものはイイ。そういう結論になったのだ。どこかに類似の表現や模倣があったとしても、いちいち気にしてる時間が惜しい。逆に、いかに盗用、模倣したかが評価されるような風潮も現れた。種々の作品はどれがオリジナルでどれがその模倣なのか、もはや誰も実態のわからない状態でネットに溢れかえっている。そういう時代になったのだ。
と、いう作品を書いたわけですが、きっとこのネタもネットのどっかにあるんでしょうね。神に誓ってパクってはいません。もし似たような作品を前に読んだことがあるならそれは偶然なんです。信じてください。
自分の作品として何かを発表するとき、必ずこのような断りが必要になっている。何かを作ろうとする者にとってはかなり鬱陶しい、そんな時代なんです。
終り
このことによって一番弊害を受けたのは出版責任者とそれ関係の賞の審査員だった。彼らはその分野の専門家である事は間違いないのだが、さすがに海外のマイナーな作品までは目が行き届いていないことが多く、盗作を見抜けずに商品化したり、賞を与えたりすることがほうぼうで見られた。
作者は故意に盗作するのだから咎められるのは当たり前としても、その盗作を出版したり、賞を与えた人間までもがひどく批判され地位や名誉が危うくなることも多かった。
たしかに盗作を排除する義務は出版社や賞の選考委員には少なからずあるのだろうが、不可能なことはどうしたって不可能なのだ。もしも完璧を期そうと思うなら、商品化や賞の選考にかなりの時間が必要となってしまう。そういった現状を受け、出版社や賞の選考委員たちは、作品に対し、"出来る限り調べた結果では盗作とは思えない、なので出版した、賞に選んだ"、などと言い訳じみた一文を添えるのが通例となった。
また、製作する側の方でも盗作などしていないのだが、大量に作品が横行しているために似通ってしまっているものが多数出てくることになった。盗作を疑われた人は盗作でないことを証明しろと迫られるのだが、ないことを証明することは不可能なのだ。
そんな状態が暫く続き、関係者は頭を痛めていたのだが、科学の発達がこの問題の解決の糸口を示した。人が網膜に映した映像を記録する装置ができたのだ。その記録は外部に溜め込むことも可能で、人が生きている間に見たすべての映像を記録することができた。それに加え、体にマイクを埋め込むことで、その人間がどんなものを見聞きしたかを証明できるようになった。この個人のプライバシーに関わるデータは簡単に閲覧することはできず、当然、改竄も消去も出来ないようになっていた。そのためその装置を埋めこまれてから以降は、何を見聞きしていないかも分かるようになったのだ。
意外にもこの装置は歓迎され普及し、新生児から装着することが一般的になった。そういったシステムの御蔭で、盗作問題は解決するかに見えた。然るべき権限の者が作者の見聞のデータを検索して、類似の作品に触れていないかを調べればよかったからである。
しかしながら、いざ実行してみるとこれは盗作問題をさらに複雑にしてしまった。人間は物を見たり聞いたりするときにはそれを意識しているわけだが、装置の記録はそれとは関係なく、眼の前の風景、発生した音を全て記録していた。そのため作者が意識していないにもかかわらず目に入ってしまった絵画、聞こえてしまった音楽などが類似の作品として引っかかることがあったのだ。そしてこういった作品は意識的ではないにしろ、盗作だろうということになり、作者本人も認めざる得なかった。無意識にしたことを否定する根拠がない。
そこでさらに科学は発展し、自分が見たくないもの、聞きたくないものを排除する装置ができた。視神経と聴覚神経にフィルターが施され、自分が意識したもの以外、情報が脳まで達しないようにしたのだ。
さすがにこの装置は一般に普及することはなく、自分の子どもを芸術家として育てたいと思った両親がその子に手術を施すくらいだった。
そんな訳で、神経にフィルターを装備した人間は数えるほどしか存在せず、その人達が成長し、芸術作品を作るようになったとき、人々は大変な期待を持ってそれを迎えた。何十年ぶりかの盗作の疑いようのない作品なのだ。
それらの作品は世界中で読まれ、聞かれ、鑑賞された。最初人々は感心の声を上げたが、それもつかの間、やがて人々は興味を失っていった。出来が良くないのだ。
どうやら芸術的作品には無意識の情報が欠かせないらしかった。そのため、今では神経のフィルターは皆取り除かれ、盗作問題は消滅した。盗作だろうがイイものはイイ。そういう結論になったのだ。どこかに類似の表現や模倣があったとしても、いちいち気にしてる時間が惜しい。逆に、いかに盗用、模倣したかが評価されるような風潮も現れた。種々の作品はどれがオリジナルでどれがその模倣なのか、もはや誰も実態のわからない状態でネットに溢れかえっている。そういう時代になったのだ。
と、いう作品を書いたわけですが、きっとこのネタもネットのどっかにあるんでしょうね。神に誓ってパクってはいません。もし似たような作品を前に読んだことがあるならそれは偶然なんです。信じてください。
自分の作品として何かを発表するとき、必ずこのような断りが必要になっている。何かを作ろうとする者にとってはかなり鬱陶しい、そんな時代なんです。
終り
スポンサーサイト