安らかなお産
「で、相手は誰?」
病室に入ってくるなり、険しい顔で母が言った。
「は?」
私は訳がわからず、そう返した。
「何?どういうこと?相手ってなんの相手よ」
合点の行かぬ私に対し、母は私をにらみ、言った。
「それはもちろん、あんたが今夢中になってる相手よ。誰?友達?同僚?それとも元彼の誰か?」
母が尋ねている相手の意味がわかり、私はカッとなって言った。
「なに言ってんのよ!私が浮気してるとでも?私が夢中になっている人と言ったら、夫のタカユキさんしかありえないじゃないの!一体、何を根拠に母さんはそんな事言うの?」
私は母を睨み返した。
「そう。しらばっくれるの?」
しばし両者が沈黙した後、母が口を開いた。
「アメリカハタネズミやキハタネズミのこと知ってる?」
「はあ?何突然?私はお母さんのような動物学者じゃないんだから、知ってるわけ無いでしょ」
あまりの意外な言葉の連続に私は母が狂ってしまったのでは、と考えた。
「じゃあ、ゲラダヒヒのことは?」
また母が言った。
私は頭にきて、大声で叫んだ。
「そんな、猿とかネズミとかのこと知ってるわけないじゃない。一体、お母さんは何が言いたいの!?頭おかしくなった?」
私が興奮して母を睨むと、母は答えた。
「今言った動物たちには共通の特徴があってね。妊娠しているメスは、もっといい相手が見つかると、流産するの。そのもっといい相手の子供をすぐに妊娠できるようにね」
「はあ?」
私は呆れてものが言えなかった。
無理やり気持ちを落ち着かせると、母に言った。
「じゃ、母さんは私が今、切迫流産でこうやって入院しているのは、私がタカユキさん以外の人を好きになったのが原因だ、と思っているわけなのね!」
母は何も答えなかった。
「バッカみたい。ヒヒとかネズミとかと一緒にしないで。私は人間よ。一体、なんの根拠が在って、そんなばかみたいな考えを持ったのよ。曲がりなりにも学者の端くれでしょ。おかしいわよ」
私は母を問い詰めた。すると母は私の方にゆっくりと近づいてくると、私の頬をなでた。
「分かるの、私には。なぜって、私も通った道だから」
母は言った。
「私はあなたを生むまで、3度流産した。そしてその原因に気付くのにそこまでかかってしまった。自分の体質にすぐに気づいていれば……。
彼と別れ、ずっと夫以外、誰とも会わないようにして、やっとあなたは生まれたの」
母の目が潤んだ。
「辛かった。あなたには私のような目に在って欲しくない。あなたのお腹の子が無事に生まれるのを私も心から願っているの。だから正直に言って。誰?あなたが思っている人は?別れるのに全面的に協力するわ。もちろん、タカユキさんには絶対ばれないようにするから」
母が私の手をギュッと握りしめた。
私はそれを振りほどいた。
「いい加減にして!何、おかしなこと言ってるの」
私は言った。
「私が切迫流産気味になったのは、少し仕事で無理したからだけ。そんな変な理由じゃないわ。私は夫以外好きな男性なんていません。私は母さんとは違うんです。悪いけどもう帰って。顔も見たくないわ」
私の剣幕に恐れをなしたのか、母はおとなしく引き下がった。けれど、あの様子だとまた来るかもしれない。
しかし何をバカなことを。私がこうして切迫流産ぎみになって入院しているのは、私がそう望んだからに違いないのに。
私は夫のタカユキさん以外に好きな男性なんていない。ただし、女性は別。
私の主治医のかおる先生。素敵な人。先生の側にいられるなら、多少、流産気味になることなんて何でもない。
もちろん、ちゃんと後は注意して、元気な赤ん坊を産むわ。流産なんかしたら、かおる先生の業績に傷つけることになるんだもの。頑張ろう。きっと無事に丈夫な赤ちゃんを生んでみせるわ。
終わり
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