夜更けの帰宅
鍵を持ちあるいてはいないので、いつものように玄関のドアを叩いた。
待つことしばし。鍵を外す音が聞こえ、扉が開き、母が「おかえり。遅かったのね。お疲れ様」と、自分を出迎えてくれる……、はずだった。
しかし、今日に限っては、何も起こらない。
”なにかで手が離せないのかな?”
もう一度ドアをノックする……。
しかし、やはりいくら待っても鍵が外れる音がしない。
”おかしい?どうしたんだろう?”
僕はリビングの窓を見た。ちゃんと明かりはついている。いつもなら、父と母はあの部屋で、本を読んだり、編み物をしているはずだが……。
更にもう一度、今度はもっと強く扉を叩いた。しかし、やはり何事も起こらず、辺りは静寂に包まれ、コトリとも音がしなかった。
しかし、よく耳を澄ますと、家の中から、微かに両親の声が聞こえてきた。
外まで音が漏れるということは、二人はかなり大声を出しているらしい。とても珍しいことだけど、喧嘩でもしているのか?
しばらく聞き耳を立てていると、父が何やら叫んだようだった。
すると、突然、僕にある思いがこみ上げてきた。
ああ、ここにいては駄目だ。戻らなきゃ。
戻る?でもどこへ?
霞がかかっていたような頭が、やにわにはっきりとした。
そうだ!僕は仕事場で事故に合ったのだ!
普段から気を付けていて、絶対にそんなことにはならない、と思っていたのに……。まるで何かに魅入られたようにふらふら機械に近づいて、巻き込まれ……。身体中に激痛が走り、そして気を失った。それから……。
それからどうなった?
その後、思い出すのは、家に向かって歩いている自分だ。その時は、ただただ、家に帰らなければ、と、取り憑かれたように思っていた。けれど……。
今は戻りたい。
家ではないどこかへ。
それはどこだ?
ふと、昨夜のことが思い出された。
昨日の夜、知り合いの船乗りのおじさんが、不思議なことを言って、不思議な物をおいていったのだった。
何でも願いを叶えてくれるという、猿の前足の干物。
父は冗談半分で、家のローンの代金を望んだ。そんなものに頼んで、お金が手に入るなら苦労しないんだが。
貧乏な僕たちが大金を手に入れるとしたら、それこそなにかの被害者にでもなって、賠償金と慰謝料を貰う時くらいだろう。
ああ、理解った。
そうだ、僕はそれで死んだのだ。きっと両親に家のローン代が入るのだろう。
僕が今こうして家に戻ってきたのは、多分母の望みか。
けれど今の僕の姿は、顔は潰れ、左手はなく、歩けるのが不思議なくらい両足もぐちゃぐちゃだ。この姿を父は母に見せたくなかったのだろう。だから僕は墓地に帰りたいのだ。
よし、帰ろう。墓地に帰ろう。
けれど何かがまた命令する。途中、人を見たら噛みつけと。誰でもいいから、手当たり次第に噛めと。
ちょうどいい具合に、あちらから酔っぱらいがやって来る。やらねばなるまい。
噛まれた人がその後どうなるか、僕にはわからないが、実行した瞬間、また、あの猿の前足が頭に浮かんでいた。そして、その前足の持ち主と思われる猿が笑った気がした。
終わり
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