幸福のお守り
「こちらにお掛けください」
ヒモト ヒトシが通された部屋には、歯医者が治療の時に使うような椅子が一つあった。
「これに座るんですか?」
ヒモトはその椅子の背もたれに当たる部分に手をかけながら、白衣姿の若い女性に聞いた。椅子の周りには何やら機械が取り付けられている。背もたれの上部は頭がすっぽりと入りそうな、大きなヘルメットのようなものがあった。
訝しげな様子のヒモトに対し、若い女が言った。
「もし、ご不審がおありでしたら、中止してもよろしいのですよ。ただし、今回お払いいただいた料金の全額を御戻しはできません。キャンセル料として、半額をお申し受けします」
慣れたものなのだろう。淀みなくヒモトにそう告げると、返事を待ってニッコリと笑った。
ヒモトはやや思案した。もともと同僚の勧めで、あまり真剣に考えることもなくこの店に来たのだ。同僚によれば最高に人を幸せにしてくれるお守りがあるのだという。ぜひお前も行ってみろ、ということだった。この様子だと何らかの医療行為を受けるハメになるのだろうか。そんなことをされるとは同僚はおくびにも出さなかった。もっとも、ただ幸福のお守りというだけで、それが具体的にどんなものか一切説明はしなかったのだから当然ではあるのだが。
「まあ、せっかくここまで来たんだ、何事も経験というし、ではお願いします」
そう言ってヒモトは椅子に座った。すると白衣の女性は椅子に備え付けのベルトをヒモトに掛けながら、「お注射しますので、どちらかの腕の袖を捲くってください」と言った。
「えっ、注射までするの!」
ヒモトは驚いたが、すぐに諦め、おとなしく腕をまくった。
駆血帯が巻かれ、何やら透明の薬を血管に入れられた。
「これは精神安定剤で、少しぼうっとするかもしれませんが、心配要りません」そう言ってから、今度は頭上のヘルメットをヒモトにかぶせた。ヒモトの視界は遮られ、目の前が真っ暗になった。
「このまましばらくお待ち下さい。もし眠くなるようならそのままお休みになっても結構です」
そう言い残し、女は部屋を出ていった。
ヘルメットは目だけではなく、耳まで塞いでおり何の音も聞こえなかった。ヒモトはしばらくは何をされるのかと気がかりで意識を保っていたが、やがて眠りに落ちてしまった。
「ヒモトさん、起きてください。もう終わりました」
気が付くとさっきの女が声をかけていた。
「あっ、はい」半分寝ぼけてヒモトは返事した。「もう、終わりですか?」
時計を見てみると三十分ほど経っていた。
「それではこちらへどうぞ」
女に促され、今度は別の部屋へ案内された。
「中で担当の者が説明いたしますので、では」
女は去っていき、ヒモトはその部屋へと入っていった。そこにはカウンターのようなものが設置されており、本棚の類や書類入れなどがあった。カウンターの向こうには中年の人のよさそうな男が座っており、男の目の前にある椅子をヒモトに勧めた。
「ようこそ、ヒモト様。今回はお疲れ様でした」
愛想のいい笑いをし、ヒモトに頭を下げた。
「いや、別に」
椅子に座ったヒモトはいささか面食らってそう答えた。
「それではこれから、当社の開発した製品についてご説明させて頂きます。まずはこれを手にとって見てください」
そういうと中年の男はカウンターの下から何やら黒い板のようなものを取り出した。大きさは手帳ぐらい、手にとって見るとさほど重くはない。
「脇に赤いボタンがございまして、それがこの機械のスイッチになっております。どうか押してみてください」
言われてヒモトはボタンを押した。すると板に画像が現れた。それは今は二十歳になるヒモトの娘の子供の頃の映像だった。
「えっ、なんで娘の画像が?」
背景はぼんやりしていてはっきりしないが、娘の子供の頃には間違いない。しかし、このような構図の動画を取った覚えはヒモトには無かった。
「脇に差込口がございますのでこれで音声もお聞きしてみてください」
男に渡されたヘッドホンをかけると「パパ!」という幼い頃の娘の声が聞こえた。
「ええっ!、娘の子供の頃の声だ。一体どうやって?」
ヒモトは男に問いかけた。男は笑顔を絶やさずに言った。
「ご説明をする前に、しばらくその機械の映像と音に注意していただけないでしょうか」
言われるままにヒモトは娘の動画を見、声を聞いた。今は大学は通うために家から離れて暮らしている娘。年頃になり男親ということもあり、今ひとつ心が通じているようには感じられないでいるが、その機械に映し出されていた頃の娘はまだあどけなく、純真に自分を呼んでいた。ヒモトはなにか胸がほんわかと暖かくなり、思わず笑みがこぼれた。こんな頃もあったな。はからずも涙も湧いてきた。それは幸せの涙だ。
「ご堪能なされたでしょうか?」
しばらくして男がヒモトに言った。
「一体これはどういう機械なんです?」
ヒモトが聞くと、男は説明しだした。
「先ほどヒモト様は椅子に座らせられ、注射を打たれ、ヘルメットを被せられたと思いますが、実はそこでヒモト様の心理分析がなされたのです」
「心理分析?」
「左様でございまして、そこでいわゆる幸福のツボとでも申しましょうか、ヒモト様がどんな映像を見、音を聞いたら幸福を感じるのかを探ったのです」
「それで娘の画像と声が・・・」
「そこに映し出された映像や聴こえてきます声などはすべてヒモト様の脳内から取り出されたものでして、過去に取られた録画などではありませんので、どうかそこはお間違えの無いようにお願いいたします」
「あっ?・・ああ」
娘の映像に気を取られ、男の説明は耳に入らなかった。温かい気持ちで胸いっぱいになり、他のことはどうでも良くなる。
「同僚が幸福のお守りといった気持ちがわかるよ」
まだ画像を見つめながらヒモトが言った。
「正式な名称はハッピーボードと言うのですが、この名前についてはもう少し工夫が必要だろうと、検討中です。映像と音声は飽きが来ないよう、時々変わるようになっております。当然、変更されたものもヒモト様の幸福のツボをつくものです。それでその機械のレンタルについてなんですが」
男はそう言ってパンフレットをヒモトに見せた。
「月々のお値段はこうなっております」
男が示した所には月いくら、年いくら、複数台でいくらなどこまごまとしたことが書いてあった。価格は実にまっとうで、二の足を踏む様な数字ではなかった。
「ああ、これなら、ぜひお願いします」
ヒモトが快く機械のレンタルをすることを承知すると、男が言った。
「それではこの機械を貸出しするにあたって、必ずお守りしていただかなくてはならないことがあります」
「なんですか?」
ヒモトがやや身構え、そう聞くと
「この機械の詳しい内容は秘密にしてもらわなければならない、ということです」と、男が答えた。
「どうして?皆に言って宣伝して貰った方が良いんじゃないですか?」
不思議に思ってヒモトが聞いた。
「この機械はまだ実験段階に近い物でして、他社に秘密が漏れるのを防ぐというのが一つあるんですが、実はこの機械は現在の法律で違法性があるかもしれないのです」
「?」
「ヒモト様の機械にはお嬢様が映し出されておりますから、多分、肖像権がどうのと訴えられることはないと思いますが、若い人達ですと、俳優や歌手、アイドルなどが映し出される可能性があるわけです。そこの所が引っかかってくる訳でして、法律が整うまで、大掛かりな宣伝は控える方針になっているのです」
「なるほど」
「もし、他の人におすすめする場合は、ヒモト様がここに来るときに聞いた内容程度でお願いいたします」
ヒモトは快く承知した。
ある場所のある部屋。そこで男が二人会話している。
「所長、予定通り、会員は増えています。このまま行けば、今年度の目標は軽く達成すると思われます」
「そうか、まずは良かった」
「しかし、なぜこんなまどろっこしいやり方をするんです?マスコミに大々的に取り上げてもらって、補助金でも出せば、あっという間に普及すると思うんですけど」
「馬鹿だな。そんなことをしたら政府の陰謀だと、バレバレじゃないか。これはあくまで、政府の意向とは関係なく、国民が自然に幸福になろうとして、会員になるようにしなければならないんだ。我々には打つ手が無いのでこれからも不況は長引き、税金と失業者は増えるだろう。自殺者を抑制し、暴動や革命が起きないようにするために、これは大切な事なのだ」
「分かりました。では引き続き、ハッピーボードの会員を増やしていくよう努力いたします」
「うむ、頼むぞ」
男は大きく頷いた。
終わり
ヒモト ヒトシが通された部屋には、歯医者が治療の時に使うような椅子が一つあった。
「これに座るんですか?」
ヒモトはその椅子の背もたれに当たる部分に手をかけながら、白衣姿の若い女性に聞いた。椅子の周りには何やら機械が取り付けられている。背もたれの上部は頭がすっぽりと入りそうな、大きなヘルメットのようなものがあった。
訝しげな様子のヒモトに対し、若い女が言った。
「もし、ご不審がおありでしたら、中止してもよろしいのですよ。ただし、今回お払いいただいた料金の全額を御戻しはできません。キャンセル料として、半額をお申し受けします」
慣れたものなのだろう。淀みなくヒモトにそう告げると、返事を待ってニッコリと笑った。
ヒモトはやや思案した。もともと同僚の勧めで、あまり真剣に考えることもなくこの店に来たのだ。同僚によれば最高に人を幸せにしてくれるお守りがあるのだという。ぜひお前も行ってみろ、ということだった。この様子だと何らかの医療行為を受けるハメになるのだろうか。そんなことをされるとは同僚はおくびにも出さなかった。もっとも、ただ幸福のお守りというだけで、それが具体的にどんなものか一切説明はしなかったのだから当然ではあるのだが。
「まあ、せっかくここまで来たんだ、何事も経験というし、ではお願いします」
そう言ってヒモトは椅子に座った。すると白衣の女性は椅子に備え付けのベルトをヒモトに掛けながら、「お注射しますので、どちらかの腕の袖を捲くってください」と言った。
「えっ、注射までするの!」
ヒモトは驚いたが、すぐに諦め、おとなしく腕をまくった。
駆血帯が巻かれ、何やら透明の薬を血管に入れられた。
「これは精神安定剤で、少しぼうっとするかもしれませんが、心配要りません」そう言ってから、今度は頭上のヘルメットをヒモトにかぶせた。ヒモトの視界は遮られ、目の前が真っ暗になった。
「このまましばらくお待ち下さい。もし眠くなるようならそのままお休みになっても結構です」
そう言い残し、女は部屋を出ていった。
ヘルメットは目だけではなく、耳まで塞いでおり何の音も聞こえなかった。ヒモトはしばらくは何をされるのかと気がかりで意識を保っていたが、やがて眠りに落ちてしまった。
「ヒモトさん、起きてください。もう終わりました」
気が付くとさっきの女が声をかけていた。
「あっ、はい」半分寝ぼけてヒモトは返事した。「もう、終わりですか?」
時計を見てみると三十分ほど経っていた。
「それではこちらへどうぞ」
女に促され、今度は別の部屋へ案内された。
「中で担当の者が説明いたしますので、では」
女は去っていき、ヒモトはその部屋へと入っていった。そこにはカウンターのようなものが設置されており、本棚の類や書類入れなどがあった。カウンターの向こうには中年の人のよさそうな男が座っており、男の目の前にある椅子をヒモトに勧めた。
「ようこそ、ヒモト様。今回はお疲れ様でした」
愛想のいい笑いをし、ヒモトに頭を下げた。
「いや、別に」
椅子に座ったヒモトはいささか面食らってそう答えた。
「それではこれから、当社の開発した製品についてご説明させて頂きます。まずはこれを手にとって見てください」
そういうと中年の男はカウンターの下から何やら黒い板のようなものを取り出した。大きさは手帳ぐらい、手にとって見るとさほど重くはない。
「脇に赤いボタンがございまして、それがこの機械のスイッチになっております。どうか押してみてください」
言われてヒモトはボタンを押した。すると板に画像が現れた。それは今は二十歳になるヒモトの娘の子供の頃の映像だった。
「えっ、なんで娘の画像が?」
背景はぼんやりしていてはっきりしないが、娘の子供の頃には間違いない。しかし、このような構図の動画を取った覚えはヒモトには無かった。
「脇に差込口がございますのでこれで音声もお聞きしてみてください」
男に渡されたヘッドホンをかけると「パパ!」という幼い頃の娘の声が聞こえた。
「ええっ!、娘の子供の頃の声だ。一体どうやって?」
ヒモトは男に問いかけた。男は笑顔を絶やさずに言った。
「ご説明をする前に、しばらくその機械の映像と音に注意していただけないでしょうか」
言われるままにヒモトは娘の動画を見、声を聞いた。今は大学は通うために家から離れて暮らしている娘。年頃になり男親ということもあり、今ひとつ心が通じているようには感じられないでいるが、その機械に映し出されていた頃の娘はまだあどけなく、純真に自分を呼んでいた。ヒモトはなにか胸がほんわかと暖かくなり、思わず笑みがこぼれた。こんな頃もあったな。はからずも涙も湧いてきた。それは幸せの涙だ。
「ご堪能なされたでしょうか?」
しばらくして男がヒモトに言った。
「一体これはどういう機械なんです?」
ヒモトが聞くと、男は説明しだした。
「先ほどヒモト様は椅子に座らせられ、注射を打たれ、ヘルメットを被せられたと思いますが、実はそこでヒモト様の心理分析がなされたのです」
「心理分析?」
「左様でございまして、そこでいわゆる幸福のツボとでも申しましょうか、ヒモト様がどんな映像を見、音を聞いたら幸福を感じるのかを探ったのです」
「それで娘の画像と声が・・・」
「そこに映し出された映像や聴こえてきます声などはすべてヒモト様の脳内から取り出されたものでして、過去に取られた録画などではありませんので、どうかそこはお間違えの無いようにお願いいたします」
「あっ?・・ああ」
娘の映像に気を取られ、男の説明は耳に入らなかった。温かい気持ちで胸いっぱいになり、他のことはどうでも良くなる。
「同僚が幸福のお守りといった気持ちがわかるよ」
まだ画像を見つめながらヒモトが言った。
「正式な名称はハッピーボードと言うのですが、この名前についてはもう少し工夫が必要だろうと、検討中です。映像と音声は飽きが来ないよう、時々変わるようになっております。当然、変更されたものもヒモト様の幸福のツボをつくものです。それでその機械のレンタルについてなんですが」
男はそう言ってパンフレットをヒモトに見せた。
「月々のお値段はこうなっております」
男が示した所には月いくら、年いくら、複数台でいくらなどこまごまとしたことが書いてあった。価格は実にまっとうで、二の足を踏む様な数字ではなかった。
「ああ、これなら、ぜひお願いします」
ヒモトが快く機械のレンタルをすることを承知すると、男が言った。
「それではこの機械を貸出しするにあたって、必ずお守りしていただかなくてはならないことがあります」
「なんですか?」
ヒモトがやや身構え、そう聞くと
「この機械の詳しい内容は秘密にしてもらわなければならない、ということです」と、男が答えた。
「どうして?皆に言って宣伝して貰った方が良いんじゃないですか?」
不思議に思ってヒモトが聞いた。
「この機械はまだ実験段階に近い物でして、他社に秘密が漏れるのを防ぐというのが一つあるんですが、実はこの機械は現在の法律で違法性があるかもしれないのです」
「?」
「ヒモト様の機械にはお嬢様が映し出されておりますから、多分、肖像権がどうのと訴えられることはないと思いますが、若い人達ですと、俳優や歌手、アイドルなどが映し出される可能性があるわけです。そこの所が引っかかってくる訳でして、法律が整うまで、大掛かりな宣伝は控える方針になっているのです」
「なるほど」
「もし、他の人におすすめする場合は、ヒモト様がここに来るときに聞いた内容程度でお願いいたします」
ヒモトは快く承知した。
ある場所のある部屋。そこで男が二人会話している。
「所長、予定通り、会員は増えています。このまま行けば、今年度の目標は軽く達成すると思われます」
「そうか、まずは良かった」
「しかし、なぜこんなまどろっこしいやり方をするんです?マスコミに大々的に取り上げてもらって、補助金でも出せば、あっという間に普及すると思うんですけど」
「馬鹿だな。そんなことをしたら政府の陰謀だと、バレバレじゃないか。これはあくまで、政府の意向とは関係なく、国民が自然に幸福になろうとして、会員になるようにしなければならないんだ。我々には打つ手が無いのでこれからも不況は長引き、税金と失業者は増えるだろう。自殺者を抑制し、暴動や革命が起きないようにするために、これは大切な事なのだ」
「分かりました。では引き続き、ハッピーボードの会員を増やしていくよう努力いたします」
「うむ、頼むぞ」
男は大きく頷いた。
終わり
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