ニューデリー ディジーズ -ニューデリー病-
分子生物学、ウイルス学の世界的権威であるカッサン教授が外での用事を終え、深夜自分の研究室に帰って来てみると、見知らぬ男が部屋を荒らしているところだった。
「誰だ、ここで何をしている」
教授は、驚いてそう叫んだ。
男は黒っぽい服を身につけてはいたが覆面のようなものはしておらず、「ちっ、しくじった」というような表情を一瞬浮かべた。が、直ぐにふてぶてしい面持ちになり、ピストルを懐から取り出すと教授に突きつけた。
「大人しくしてもらいましょうかね、教授」
男は狙いをつけたままゆっくりと近づいてきて教授に言った。どうやら教授のことを直ぐにどうこうする気はないらしい。
「なんだ、何の真似だ」
教授は銃口と男の顔を交互に見つめながらジリジリと後ずさりしたが、直ぐに部屋の壁に背中が当たってしまった。男はどうあっても狙いを外しそうもなく、かと言って奪われそうにない距離まで銃を近づけると教授に言った。
「見つかるなんてドジを踏んだのは久しぶりですが、考えようによってはかえって良かった。こうして本人に直接聞けますものね」
教授が押し黙ったままでいると男は続けて言った。
「この大量に資料が詰まった部屋から目当てのものを探すのにはうんざりしてきたところだったんですよ。いや、ほんと助かります」
「何が目的なんだ」
男を睨み付け教授が聞いた。
「見当が付きませんか」
男は薄ら笑いを浮かべ教授に言った。
「分かる訳ないだろう。私は一介の研究者だ。悪党に狙われるようなものを作ったり発見した覚えはない」
そう教授は答えたが、心なしか声に力がなかった。
「嘘をついてはいけませんな。あなたが非常に危険な研究に手を染めていることは分かっているんですよ。しかももうほとんど完成しているとか」
男は教授の顔を伺うように言った。
「馬鹿馬鹿しい。誰がそんなことをどこで言ったのかは知らないが、根も葉もない嘘だ」
教授は大声で否定した。
「まあ、素直にお認めにはならないのは分かりますが、無駄なことですよ。実はこちらの調査もほとんど済んでいるんです。決定的な証拠はまだですが、あなたが新種のしかも凶悪なウイルスを作成しているというのはもう分かっているんです」
男のその言葉を聞いて教授が言った。
「お前は政府の者か」
「ご名答」男は言った。
「教授が我が国に提出している研究計画には、新種ウイルスの作成はなかったですよね。そして我が国もそれを依頼はしていない。するとどういう事でしょうな。あなたが個人的な趣味でウイルスを作っているのか、それとも我が国には秘密にしなければならない相手から頼まれたのか」
男は教授に問いかけた。教授は無言のまま下を向いている。
「本来なら完全な証拠を掴んで逮捕という道筋なのですが、ことこうなっては仕方が無い。さあ、痛い目に遭いたくなかったら、おとなしく新種ウイルスのデータを渡してもらいましょうか」
そう言って男は銃を構え直した。
「言っときますが、逆らっても無駄ですよ。これからあなたを連行して、この部屋を大勢でゆっくり捜索することにしてもいいんですから。しかしそれだとお互い面倒でしょう。素直に渡してくれれば裁判になった時でもいくらか心象が良くなりますから、その方が得ですよ」
男に脅され教授は恐怖に怯えた顔を向け、男に語りかけた。
「なあ、聞いてくれ。私の研究は君が思うようなものじゃないんだ。けして他国のバイオ兵器として活用されるようなものじゃない」
「ほう、ではあなたの趣味で作ったというわけですか」
男は皮肉交じりに言った。
「なあ、君は何故世界で戦争が絶えないと思う」
「はあ?」
教授の意外な言葉に男は一瞬虚を突かれたが直ぐに持ちなおして言った。
「なんです。くだらないことを言って時間稼ぎですか。時間が経てば何がどう好転するのか知りませんが、こちらも既に仲間を呼び出していてまもなくかけつけるはずなので何を企んでいようと無駄ですよ」
「そんなんじゃないんだ。真面目な話だ」
「はあー、真面目な話ですか。そりゃ驚いた。それで戦争がなんでこの場に関係するんですか」
「戦争が絶えない原因は色いろあるのだろうが、一番の原因は人々が飢えるからなんだ。日に三度の食事がおぼつかない。ひどくなると日に一度、最後にはまる一日食べられない時がある。そうなってくるともう人は必死だ。他人を押しのけてでも食料を得ようとする。そしてたらふく食べているものをうらやむ。最後には自分が飢えるのはたらふく食べている者達が原因だと考え、暴動が起きる。その人々のエネルギーを利用しようとするもの者が現れ、革命が起き、隣の国が豊かだと侵略しようとする。もしも、明日三度の食事が約束されているのなら誰もわざわざ戦おうなどとは考えないはずだ」
「まあ、一理ありますかね」
「何故、飢えが起こるのか。天候不順による食料生産の低下が挙げられているが、本当は違う。その土地が維持できる人の数をはるかに超えて人間が増えるからだ。歴史的に見ると国は人口の増加による飢えによって内乱が起こり、大量に人が減って、やっと飢えが収まり、国も収まっていく、ということを繰り返している」
「はあ、そうですか」
男の返事は投げやりだった。
「地球の人口はついに九十億を超えた。これではいつか破滅する。ひどい戦争が方々で起こる。私はそれを止めたかったのだ」
男は教授のその話を聞いて呆れて言った。
「つまり、地球の人口が増えすぎている。このままだとひどい戦争が起きる。だからウイルスで人を減らしてしまおう、とそう思った、てことですか」
教授は頷いた。
「その話が本当ならあなたは狂っている。医者に見てもらうべきだ。まあ、病院に行く前にそのウイルスのデータはこちらに渡してもらいますが。さあ」
教授は男に理解してもらうのは諦め、言った。
「ご苦労なことだったが君の仕事は間に合わなかったんだよ」
「えっ!」
その意味を察して男が叫んだ。
「それじゃ、既にウイルスはばらまかれてしまったのか」
「そうだ。方々を回って、今帰ってきたところだったんだよ」
教授が悪びれもせず言った。
「貴様!」
男は教授の胸ぐらに掴みかかると詰め寄った。
「止めろ、今直ぐ!」
男の怒りに任せた顔を眺めながら、教授はゆっくりと首を横に振った。
「一旦ばらまかれたウイルスを元に戻す方法など存在しない」
「あー、このクソヤロー!」
男は教授を突き飛ばすと急いで電話をかけ始めた。この事態を収集すべく、然るべき組織を動かすために。
教授は逮捕、監禁され厳しい尋問を受けた。もちろんそれは秘密裏に行われた。ことが公になった場合、国内だけでなく、世界中がパニックに陥る恐れがあったからだ。
教授はかたくなに口をつぐみ、研究資料も既に処分済みで、どのようなウイルスがばらまかれたのか、不明のままだった。
この情報を知っている者達は国内に奇病発生の報告を固唾を飲んで待っていた。しかし一週間たち、一ヶ月たっても何の兆候も現れなかった。そのためどうやらカッサン教授はウイルスの作成に失敗したらしいということになっていった。周りを騙しての研究開発であったのだから、実験の正確性が落ちるのは当然であろうということもその根拠になった。
結果、カッサン教授は重罪とはならなかったが、精神に問題ありとして残りの人生を死ぬまで病院で過ごさせることに決まった。
二十数年後、新しい病気、ニューデリーディジーズの発見者としてインドのカルマ教授がノーベル賞を受賞した。この病気の原因のウイルスは人の受精卵を攻撃する特異なウイルスであり、感染初期は体内に潜伏し、女性が産次を重ねないと発動しない特徴を持っていた。要はこの病気にかかった女性は多産することが出来ず、二から三回出産を経験すると後は不妊となったのだ。
このウイルスの伝染力は強く、症状も特異的だったため発見が遅れ、気付いた時には人類はほぼ百%罹ってしまっていた。
そのおかげと言ってはなんなのだろうが、世界の総人口は九十億を越してから増加率が鈍くなり、このまま行くと百億をピークとしてその後ゆっくりと減少して行くのではと予測された。
そのため、この病気を治療、撲滅していくのか、このまま暫く様子をみるべきか賛否が半ばし、世界中で方針は固まっていなかった。
カッサン教授の逮捕に関わった人たちは、このウイルスこそが教授が作成したものであり、教授は人類の恩人ではと思うことがたまにあるのだが、今まで全てを隠蔽していたことを考えると、教授を病院から出すことは出来ないのだった。
教授は自分の研究の成果を耳にして満足した。そして死ぬまで病院で楽しく暮らした。
終り
「誰だ、ここで何をしている」
教授は、驚いてそう叫んだ。
男は黒っぽい服を身につけてはいたが覆面のようなものはしておらず、「ちっ、しくじった」というような表情を一瞬浮かべた。が、直ぐにふてぶてしい面持ちになり、ピストルを懐から取り出すと教授に突きつけた。
「大人しくしてもらいましょうかね、教授」
男は狙いをつけたままゆっくりと近づいてきて教授に言った。どうやら教授のことを直ぐにどうこうする気はないらしい。
「なんだ、何の真似だ」
教授は銃口と男の顔を交互に見つめながらジリジリと後ずさりしたが、直ぐに部屋の壁に背中が当たってしまった。男はどうあっても狙いを外しそうもなく、かと言って奪われそうにない距離まで銃を近づけると教授に言った。
「見つかるなんてドジを踏んだのは久しぶりですが、考えようによってはかえって良かった。こうして本人に直接聞けますものね」
教授が押し黙ったままでいると男は続けて言った。
「この大量に資料が詰まった部屋から目当てのものを探すのにはうんざりしてきたところだったんですよ。いや、ほんと助かります」
「何が目的なんだ」
男を睨み付け教授が聞いた。
「見当が付きませんか」
男は薄ら笑いを浮かべ教授に言った。
「分かる訳ないだろう。私は一介の研究者だ。悪党に狙われるようなものを作ったり発見した覚えはない」
そう教授は答えたが、心なしか声に力がなかった。
「嘘をついてはいけませんな。あなたが非常に危険な研究に手を染めていることは分かっているんですよ。しかももうほとんど完成しているとか」
男は教授の顔を伺うように言った。
「馬鹿馬鹿しい。誰がそんなことをどこで言ったのかは知らないが、根も葉もない嘘だ」
教授は大声で否定した。
「まあ、素直にお認めにはならないのは分かりますが、無駄なことですよ。実はこちらの調査もほとんど済んでいるんです。決定的な証拠はまだですが、あなたが新種のしかも凶悪なウイルスを作成しているというのはもう分かっているんです」
男のその言葉を聞いて教授が言った。
「お前は政府の者か」
「ご名答」男は言った。
「教授が我が国に提出している研究計画には、新種ウイルスの作成はなかったですよね。そして我が国もそれを依頼はしていない。するとどういう事でしょうな。あなたが個人的な趣味でウイルスを作っているのか、それとも我が国には秘密にしなければならない相手から頼まれたのか」
男は教授に問いかけた。教授は無言のまま下を向いている。
「本来なら完全な証拠を掴んで逮捕という道筋なのですが、ことこうなっては仕方が無い。さあ、痛い目に遭いたくなかったら、おとなしく新種ウイルスのデータを渡してもらいましょうか」
そう言って男は銃を構え直した。
「言っときますが、逆らっても無駄ですよ。これからあなたを連行して、この部屋を大勢でゆっくり捜索することにしてもいいんですから。しかしそれだとお互い面倒でしょう。素直に渡してくれれば裁判になった時でもいくらか心象が良くなりますから、その方が得ですよ」
男に脅され教授は恐怖に怯えた顔を向け、男に語りかけた。
「なあ、聞いてくれ。私の研究は君が思うようなものじゃないんだ。けして他国のバイオ兵器として活用されるようなものじゃない」
「ほう、ではあなたの趣味で作ったというわけですか」
男は皮肉交じりに言った。
「なあ、君は何故世界で戦争が絶えないと思う」
「はあ?」
教授の意外な言葉に男は一瞬虚を突かれたが直ぐに持ちなおして言った。
「なんです。くだらないことを言って時間稼ぎですか。時間が経てば何がどう好転するのか知りませんが、こちらも既に仲間を呼び出していてまもなくかけつけるはずなので何を企んでいようと無駄ですよ」
「そんなんじゃないんだ。真面目な話だ」
「はあー、真面目な話ですか。そりゃ驚いた。それで戦争がなんでこの場に関係するんですか」
「戦争が絶えない原因は色いろあるのだろうが、一番の原因は人々が飢えるからなんだ。日に三度の食事がおぼつかない。ひどくなると日に一度、最後にはまる一日食べられない時がある。そうなってくるともう人は必死だ。他人を押しのけてでも食料を得ようとする。そしてたらふく食べているものをうらやむ。最後には自分が飢えるのはたらふく食べている者達が原因だと考え、暴動が起きる。その人々のエネルギーを利用しようとするもの者が現れ、革命が起き、隣の国が豊かだと侵略しようとする。もしも、明日三度の食事が約束されているのなら誰もわざわざ戦おうなどとは考えないはずだ」
「まあ、一理ありますかね」
「何故、飢えが起こるのか。天候不順による食料生産の低下が挙げられているが、本当は違う。その土地が維持できる人の数をはるかに超えて人間が増えるからだ。歴史的に見ると国は人口の増加による飢えによって内乱が起こり、大量に人が減って、やっと飢えが収まり、国も収まっていく、ということを繰り返している」
「はあ、そうですか」
男の返事は投げやりだった。
「地球の人口はついに九十億を超えた。これではいつか破滅する。ひどい戦争が方々で起こる。私はそれを止めたかったのだ」
男は教授のその話を聞いて呆れて言った。
「つまり、地球の人口が増えすぎている。このままだとひどい戦争が起きる。だからウイルスで人を減らしてしまおう、とそう思った、てことですか」
教授は頷いた。
「その話が本当ならあなたは狂っている。医者に見てもらうべきだ。まあ、病院に行く前にそのウイルスのデータはこちらに渡してもらいますが。さあ」
教授は男に理解してもらうのは諦め、言った。
「ご苦労なことだったが君の仕事は間に合わなかったんだよ」
「えっ!」
その意味を察して男が叫んだ。
「それじゃ、既にウイルスはばらまかれてしまったのか」
「そうだ。方々を回って、今帰ってきたところだったんだよ」
教授が悪びれもせず言った。
「貴様!」
男は教授の胸ぐらに掴みかかると詰め寄った。
「止めろ、今直ぐ!」
男の怒りに任せた顔を眺めながら、教授はゆっくりと首を横に振った。
「一旦ばらまかれたウイルスを元に戻す方法など存在しない」
「あー、このクソヤロー!」
男は教授を突き飛ばすと急いで電話をかけ始めた。この事態を収集すべく、然るべき組織を動かすために。
教授は逮捕、監禁され厳しい尋問を受けた。もちろんそれは秘密裏に行われた。ことが公になった場合、国内だけでなく、世界中がパニックに陥る恐れがあったからだ。
教授はかたくなに口をつぐみ、研究資料も既に処分済みで、どのようなウイルスがばらまかれたのか、不明のままだった。
この情報を知っている者達は国内に奇病発生の報告を固唾を飲んで待っていた。しかし一週間たち、一ヶ月たっても何の兆候も現れなかった。そのためどうやらカッサン教授はウイルスの作成に失敗したらしいということになっていった。周りを騙しての研究開発であったのだから、実験の正確性が落ちるのは当然であろうということもその根拠になった。
結果、カッサン教授は重罪とはならなかったが、精神に問題ありとして残りの人生を死ぬまで病院で過ごさせることに決まった。
二十数年後、新しい病気、ニューデリーディジーズの発見者としてインドのカルマ教授がノーベル賞を受賞した。この病気の原因のウイルスは人の受精卵を攻撃する特異なウイルスであり、感染初期は体内に潜伏し、女性が産次を重ねないと発動しない特徴を持っていた。要はこの病気にかかった女性は多産することが出来ず、二から三回出産を経験すると後は不妊となったのだ。
このウイルスの伝染力は強く、症状も特異的だったため発見が遅れ、気付いた時には人類はほぼ百%罹ってしまっていた。
そのおかげと言ってはなんなのだろうが、世界の総人口は九十億を越してから増加率が鈍くなり、このまま行くと百億をピークとしてその後ゆっくりと減少して行くのではと予測された。
そのため、この病気を治療、撲滅していくのか、このまま暫く様子をみるべきか賛否が半ばし、世界中で方針は固まっていなかった。
カッサン教授の逮捕に関わった人たちは、このウイルスこそが教授が作成したものであり、教授は人類の恩人ではと思うことがたまにあるのだが、今まで全てを隠蔽していたことを考えると、教授を病院から出すことは出来ないのだった。
教授は自分の研究の成果を耳にして満足した。そして死ぬまで病院で楽しく暮らした。
終り