個室から相部屋へ そして退院
大学病院入院4日目より急速に回復してきた私は、まだ多少黄色味の値(ビリルビン)と炎症反応の値(CRP)が高く、微熱もありましたが、来た看護師さんが皆”あら、ずいぶん良くなりましたね”と言われるようになりました。
自覚はありませんでしたが、入院時は大分ひどい様相を呈していたようです。
何でも顔や手足はむくみ、肌の色も暗黄色、当然目は血走りといったふうで、それが今は顔や手足はスッキリとし、肌も赤みを差してきて、目の充血も随分薄らいできたらしいのです。
食事をすることにより、入院時よりなかったお通じも実に14日ぶりに開通し(なんと、最初はビリルビンが腸に排泄されていなかったせいで白かったのです。”白い一日”などというくだらない話を書いたせいかも)、重症と言える症状はなくなりました。もはや個室にいる理由もありません。そこで大学病院に来てちょうど一週間目、私は相部屋に移されることになりました。
移った病室は四人部屋で、私は奥の左、窓側のベッドになりました。
同室者の方々は、同じ窓側、向かいのOさん、隣のTさん、斜め向かいのNさん。
皆さん私より年上で、呼吸器内科を受診されている方々でした。
移るなり皆さんに挨拶をしたのですが、Oさんだけは見るからにそれどころではないご様子で、案の定、翌日には個室に移られてしまいました。最初から決まっていたことなのか、移った先は私が今までいた部屋でした。
翌々日には今度はKさんが私の向かいに入院され、部屋はまたいっぱいになり、後は私が退院する日まで、同室者が変わることはありませんでした。
話を聞くに、皆さん肺がんを患い、放射線と抗癌剤治療を受けていらっしゃるらしく、斜め向かいのNさんは頭髪や眉毛があまりありません。
皆さん、しみじみタバコがよくなかった、診断されるまで吸っていた、と後悔の念を吐露されてまして、若い頃は吸っていたけれど、今はやっていない私は、何と言えばいいのか、非常に困り、ただ黙っていました。
この病院では金曜日に必ず体重測定をすることになっており、部屋を移った日がちょうど金曜日で、私は体重測定をさせられました。
そこでびっくり。66kg。先週、ここに入院初日で計った時は74kgです。なんと、一週間で8kgの減量に成功って?多分、先週はむくみもあってその体重なんであって、入院から12日間も絶食していたわけですから、普通のコトなのかもしれないとは思いましたが。
いや~、こんな体重になったのは何年ぶりでしょうか。中年になってからずっと70台前半を維持してきた身としてはリバウンドしないだろうかと、今も心配しています。
部屋を移った翌日にはついに繋がれっぱなしだった点滴が時間制となりました。食事が取れるようになったので栄養剤はしなくてよくなり、抗生物質だけとなったためです。
そこで、看護師さんより提案がありました。”お風呂入ってみない?”と。
そう、点滴されていない間なら動くのも自由。私は入院以来はじめて、お風呂に入ることにしました。
病院のお風呂は昼間だけの営業で、朝8時から夕方5時まででした。私はその日、2時半に予約してもらい、はじめて病院のお風呂というものを使わせてもらいました。
日の明るいうちからお風呂に入ることはあまりないため、かなり違和感はありましたが、それでも暗いよりは良かったと思いました。
裸になって備え付けの鏡で見るとやはりまだ黄色い。足が随分細くなっている、と自分の体がよく観察できるからです。
頭の毛は変わらない。すこしホッとしました。まあ、悪あがきですが。
で、体を洗い、ふとあれを見ると、な、なんだこれ!
グロい!キモい!自分のものながら身の毛がよだつ!
なんと自分のあれが毒々しい色をしているのです。暗い緑と黄色と赤と紫と、そんな色がまだら模様になってまして、一見、冷蔵庫で古くなった肉のようです。どうも普通の皮膚より粘膜のほうが黄色みが強く出ているようです。
丁寧に洗いながらも、見なかったことにしよう、と心に決めました。(今は元に戻っています)
それからは一日置きにお風呂に入るようになり、退院までは快適に過ごせるようになりました。
部屋を移って四日後、血液検査の結果、炎症反応(CRP)は正常となり、熱もまったく無くなりました。ビリルビンがまだ少し高い(3くらい)ようでしたが、先生は今週末をもって退院をしてもいい、とおっしゃってくれました。念願の言葉です。
そこで迎えに来てもらう都合上、次の日曜日に退院することを決めました。
前の病院と合わせて3週間と2日、結構長かったです。
自営業である私は顧客がどうしているのか、すこし心配していました。
退院後はできるだけ早く仕事に復帰しなければ、と思っていると、先生が”まだ身体が弱っているから、無理すると別の病気になったりする可能性があるよ”と厭なことを言います。
まあ、大丈夫だろうと高をくくっておりましたが。
それから後は特筆することもなく、退院の日を迎えました。
2週間分の薬を渡され、前の病院へまた顔を出すよう紹介状ももらいました。
久しぶりに吸う外の空気はなんとも言えないもので、気が付くとすっかり春でした。
懐かしの我が家に到着し、次の日には仕事に戻りました。
翌週、最初に入院した総合病院を訪れ、検査を受けた結果はまだビリルビンと肝機能の一部の値が正常値を超えており、さらに一ヶ月分のお薬を渡されました。
そしてそれからさらに一週間後……。
賢明な読者の方々はこのシリーズの記事の題名が、前回からすこし変わっているのにお気づきでしょうか?
そう、最期にクエスチョンマークが足されていることに。
実は当日、再び総合病院を訪れた私は、先生から衝撃の事実を告げられたのです。
曰く、つくばから届いた検査の結果、あなたのレプトスピラ感染は否定されました、と。
え~~~~っ!ちょ、ちょっと~~っ!
はい、そうなんです。今まで長々とレプトスピラ感染記と銘打って書いていたことは全て嘘だったんです。
レプトスピラ症の確定診断にはペア血清というのを使いまして、菌が感染した時に残る足あと(抗体)の血清中の量を感染の初期と治癒した時で比べて、治癒した時の抗体量が何倍か上がっていたらその菌に感染していた証明となるわけなんですが。
この場合、私のレプトスピラ抗体は最初も最後も全然上がっていなかったそうなんです。
”じゃあ、私は何の病気だったんですか?”
当然、そう先生に聞きましたが、先生は”さ~っ?”と答えるだけでした。
結果、私はワイル病様の病態を示した不明熱ということになったらしいです。
”おいおい、おらあ、レプトスピラになりました、ワイル病になりましたって言いふらしちゃってたんですけど。ブログにまで載せちゃったんですけど。
大学病院の先生、ワイル病だってきっぱりと言ってたじゃあないですか。頼もしい、立派な先生だと思っていたのに。
退院後にネットで調べたワイル病の病状は自分にもピッタリ当てはまったけど、ただの偶然?
自分が治ったのは本当に運が良かったことだったのか?”
なんか色々考えちゃいました。
そこで今まで書いた記事を消してしまおうかとも思ったのですが、それも忍びなく、題名の最期にクエスチョンマークを付けて、前回の記事を書いた次第です。
何か結局今まで書いていたショートショートのように、意外なオチが付いてしまいましたが、とにかくこれが私の感染記となります。
さらに二段落ちとして、実は前回病院に行ったのはあらたなる症状が現れたからでして。
そして付けられた病名はアレルギー性紫斑病、原因不明、感染か薬に関係ありか?というやつで、現在、私の両足には赤いポツポツがたくさんあります。
次の不幸自慢が書けるかもしれません。
その時にはまた。
終わり
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ジャンル : 小説・文学

転院 救急車に揺られて
転院当日、私は倦怠感がひどく、その他の症状も変わりなく、特に感慨はありませんでしたが、救急車で連れて行かれることにはほっとしていました。大学病院に行くのに普通の車でとか、電車を使ってとかでは耐えられる自信がなかったからです。
朝早くからお迎えの救命士さん達が来て、廊下に用意されたストレッチャーに横になりました。そこで縛られて、エレベーターで階下へ。そこから救急車にそのままストレッチャーごと入りました。
側に救命士のお兄さんと足元に女房が付いています。ここで何か救命士のお兄さんに尋ねられた気もするんですが、記憶が抜けている。この時は目も開けるのも億劫で、ただじっと横たわっていました。
しばらくして車が発進し、そしておなじみのあのサイレンが聞こえて来ました。まあ、これがずうと聞こえっぱななんですけどね。救急車は乗り心地が悪いと人から聞いていましたが、想像してたよりずっとましでした。但し、この時の体調、特に脳は本当ではなかったので、あまり信じないほうが良いと思いますが。
目的地の大学病院までは約一時間掛かったようです。
サイレンが止まり、車がゆっくりとカーブしたかと思うと、間もなく停車しました。
救命士のお兄さん方が車からストレッチャーごと私を降ろし、そのまま病院のエレベーターに。
随分と乗ってるなあと思ったらやっと止まり(後からそこは16階だと気づきました)、私の新しい病室に到着しました。
"だいじょぶですか?”的なことを聞かれながら、自力で新しい病室のベッドへ。
見ると、何とそこは個室でした。
”えっ、お高いんでは?”と考えたんですが、後から聞くと、そこは重症患者専門の個室らしく、料金は変わらないようです。
でもこの時点では自分が重症患者扱いされていることは知りませんでした。なので、その後、ふらふらで廊下に出て、先生に部屋に戻るよう言われるんですが。
そして数日経ってから、廊下に出ていいよ、と許可をもらえたことで、自分が個室に閉じこもっていなければならない程、重い症状と見なされていたことを知りました。
転院して、主治医となった先生はとても自信ありげで、私の病気は”ワイル病でしょう”と断定しました。さらに、”大丈夫、治りますから”と。
いや、私も治らないなどとは露ほども思っていなかったんですが、なかなか頼もしい先生です。さすが大学病院の先生だ、と感心しました。(ただし、この後、会うごとに”大丈夫、治りますから”と繰り返すので、逆にすこし不安になったことは内緒です)
個室ということもあって、これで誰に気兼ねすることも無くなり、夜に心置きなく吐いたり、何度もトイレに行くことが出来たので、かなり精神的にストレスが無くなった気がしました。
そのせいもあるのか、治療が功を奏したのか、ただ時が経ったからなのか、転院して3日め、ついに気持ち悪さが無くなりました。同時に、頭痛もかなり和らいで来ました。変な映像を見ることも無くなりました。
そのことを看護師さんに伝えると、なんと、何か飲むか?と聞いてきました。
同じ階に自動販売機があり、そこから買ってきてくれるとのこと。(その時はまだ、部屋から出る許可がおりていなかった)
看護師さんてなんて親切なんだろうと思いました。
このとき、絶食して10日目。悪いとは思ったんですが、自分自身、ちゃんと飲み喰いできるのか確かめたかったのもあって、ジュースを、直感に従って、りんごジュースとグレープフルーツジュースを頼みました。
看護師さんは厭な顔もせず買ってきてくれました。
私はお礼を言い、さっそく2つのジュースを口にしてみると……。
何と不思議なことなのか、りんごジュースはこの世のものと思えないほどおいしく、うま~っ!だったのですが、グレープフルーツジュースは気持ち悪くて飲めませんでした。変な匂いに感じるんです。残念ですが捨てました。
この一週間後、再びグレープフルーツジュース飲むんですが、その時はもう、普通にグレープフルーツの味だったので、この時はそういう体調だったのでしょう。
世にグルメ云々、何が美味しいかという話がありますが、健康な人たちのはなしであって、調子が狂ってる人間には縁がないかも、などと思いました。
気持ちは悪くなくなったが味覚がおかしいままだなあ、ということで、これから食事はどうしようかと考えていると、看護師さんに食事が取れないと点滴は外せない、と言われました。
入院したその日から、ずっと点滴に繋がれっぱなしです。煩わしい事まちがいなし。さらに、食べられるようにならなければ退院できるわけもない。そこで、薦められるまま、入院から十二日目の朝、ついに病院食を口にすることにしました。
出されたのは流動食。
私のようにしばらく食べれなかった患者はいきなり普通のご飯ではなく、最初水っぽいものからだんだん硬くしていき、普通の硬さが食べられるようになったら、今度は量を増やしていく、というふうに進むらしいのです。
で、出されたのは噂に聞く悪名高き重湯。それと味噌スープと野菜スープ。
味噌スープってのは味噌汁の具を抜いたやつでした。野菜スープにも具はなし。
野菜スープは結構美味しく、味噌スープも飲めましたが、やっぱり噂通り。重湯がひどい。一口すすって気持ち悪くなり、トイレに流してしまいました。
しかし、体調とは不思議なもので、次の日の昼には重湯が甘く感じるようになり、八割がた飲めるようになりました。そこで次にクラスチェンジ。食事は5分粥に移行。その後も一日間隔で全粥→軟飯→普通のご飯にかわり、順調に回復していきました。
続きます
テーマ : 雑記
ジャンル : 小説・文学

熱に浮かされ
入院3日めの日曜日、気分は最悪でした。頭痛、胃痛、胃のむかつき。お腹は張り、ゲップもひどい。光で目が痛くなるので、始終まぶたを閉じてなくてはならず、倦怠感もひどくなってきました。
しかし、もっとも、なんじゃこりゃと思ったのは脳の異常です。
まぶたを閉じていると目の前にありありと不思議な模様が展開していくのです。
私に絵心があれば忠実に再現できるのでしょうが、とにかく文章で伝えるのは難しい、幾何学模様や、人物、怪獣などが現れては消えます。
そして阿呆な事に、私はそれを見て喜んでいました。やたら感動的なんですよ、その映像。
お~っ、すごいすごい。俺に絵が描けるならどんなに良かったか、と本当に悔しがってました。その時は。
さらに幻聴です。ベッドに寝てると、ときどき枕のすぐ後ろのほうでカエルの合唱が聞こえるのです。
あれ?まだ3月だよな。それに病院でカエルって、とちゃんとそれが幻聴だと気づいたのですが、気づいてもやっぱりカエルの合唱が聞こえるときは聞こえてくるのでした。
また検査?だったんだけど、ちょっと予定外。
4日めは月曜日。病院も平常勤務。今度は全身のMRIを撮ることになりました。
どこが悪いのか、悪くないのか、確かめるためだそうでして、その日の午後、一向に症状が改善しない私は再びMRI室に。
しかし、ここでアクシデント。またベッドに括りつけられ、いざ、という時になって機械が動かない。
スタッフの人達がなんかあれやこれややってましたが、一向に直る気配はない。
結局、この日は中止となったんですが、それまでほぼ一時間、ベッドに括られたままでした。
もしこの時、自分が正常だったなら、かなり憤慨していたと思うんですが、いかんせん、もはやそんな気力はどこにもありませんでした。
目を開けるのも億劫で、どうにでもしてくれ状態で、MRI用のベッドでぐったりしていたのです。もちろん、この時も何やら怪しい映像を見てたのですが。
全身MRIができないことを受け、先生はは今度は私に胃カメラをすることを決めました。
胃に異常がないか、そして、本当に胆汁が十二指腸内に出ていないのかを見るためです。
もしこの時、自分が正常だったら、胃カメラと聞いてかなり怯えたと思うんですが、いかんせん、もはやそんな気力は(以下略)
もちろん、胃カメラを飲むのも初めてでした。ベッドに横になり、喉が麻痺するものを飲まされて、マウスピースみたいなもの付けて、やおらチューブを口から突っ込まれました。
いや~、これは苦しかった。何なんでしょう、あの感覚。背中から汗がびっしょりと出てくるのが分かりました。
あと、十二指腸までカメラが降りて、周囲を探ってた時なのでしょうけど、その時明らかに自分の腹の中側から何かが外に向かってつんつんしてくるのです。えらい奇妙な感覚。エイリアンのあの場面を思い出しました。
で、検査結果なんですが、胃はいたって健康。やはり食道炎はあり。胆汁は分泌していない。
まあ、予想通りでした。
その夜はまた吐いたら困るので、吐き気止めと強力な睡眠薬をいただきました。
この睡眠薬はすごかった。脳に蓋をされる感じで、頭痛いのも、気持ち悪のも、俺は知らんという感じで、勝手に脳が停止し、いつの間にか眠っているのでした。
そして入院5日目。さらに脳症状が。なんと、一瞬目の前が真っ暗になることが。しかも寝ているとそばに人が立っていて、何事か話しかけてくるのです。頻繁に。
もっとも印象的だったのは、女房がベッドの側に来て、何故か枕の後ろの壁に出現したドアを開けて手招きするんです。ドアの外はすぐ下りの階段になっていて、こっちに降りていけば治るからとか何とか、女房は言うんですが、いやいやそんなことないから、と私は一生懸命否定しておりました。
そんな、なんかもう、そろそろ皆が彼は大丈夫なんだろうか?と思い出していた頃、MRIの機械は一日で直ったらしく、全身MRIを撮ることに。
今度は何事も無く検査は終わり、出てきた結果は、いたって健康。
私は頭から足先まで見てもらえ、どこにも異常がないことを保証されました。
ただ、全身がすこし黄色いのと、なんだか目が充血してきたのとを除けばですが。
事ここに来て、先生はついに他の病院の先生に相談することになり、受けたアドバイスにより、ワイル病ということなりました。
しかし、特に証拠はありません。レプトスピラ症は確定診断が難しいのです。それが先生の不安を煽っていたようで。
入院6日め。
もはや特別書くこともなく、日は過ぎて行きました、っていうか、この頃の記憶は曖昧なのです。症状は一向に好転しません。血液検査の数値も上がる一方で、黄色味はさらに増していました。
さらにこの頃からまた夜に吐くようになりました。違ったのは、吐くとすっきりするので、眠りに付きやすくなったことでしょうか。まあ、この頃は常にうつらうつらしていたんですけどね。
そして入院一週間目、症状変わらず。いや、むしろぐったりして、歩くのもやっとになってきてました。
なにせ病院にいる間、ほとんど何も口にしていません。腹は空かないんですが、体力はかなり落ちたようで。
そしてその日の午後になって、先生がついにギブアップ宣言をし、私は専門医がいる大学病院に転院することになりました。
そこは県庁所在地にあって、自宅からはかなり離れています。家族の負担が増しますし、それに大学病院でも治療は同じだろうと思ってましたから、正直乗り気ではなかったのですが、先生が私では無理とおっしゃったので、まさか居座るわけにもいかないだろうと覚悟を決めました。
あ~、せめて病院食を一食でも味わいたかったなあ、何て、煮えた頭で考えてました。実はこの病院の食事は美味しいと結構評判だったのです。
病院食を堪能し、女房の職場を見学してまわろう、という野望は潰えてしまいました。
では次回は転院、大学病院編を書きたいと思います。
終わり
テーマ : 雑記
ジャンル : 小説・文学

検査、検査、検査。しかし診断は着かず
近所の内科医院を出ると紹介状を携え、女房の車に乗ってすこし離れた町の総合病院に向かいました。
着くと新規受付へ。
既に受付時間は終わっていたのですが、紹介状を見せると消化器科の先生が診てくれることになりました。
診察室の前の廊下のソファに座り、待っている間に検温。その後コップを渡され再び採尿。
前の医院でもやったので、出るのか不安でしたが、何とか出てきた。
競技後のアスリートよりはましだよな、と馬鹿なことを考えてました。何でも検査員がガン見しているところで出さなきゃあならないとか。それよりはなんぼか楽なことかと。
診察室に呼ばれ、前の医院の先生と同じことを聞かれ、同じように血を取られ……。
この時は、なんだよ、前の検査データ、ちゃんと渡したはずだろ。二度手間じゃねーのかよ、と思ってたんですが。
何と、尿検も血液検査も項目を増やしてたようなんですな。出た結果を見て言われました。
「膵炎になってるね」
「はいっ?!」
そうなんです。膵炎特異の項目、アミラーゼってんですが、それが尿中にも血中でも増加していたんです。尿の値が6,265。普通700以下。血の値が582。普通200以下。立派な膵炎だ。こりゃまずいかも。
でも、ちょっと待てよ。膵炎はえらく腹が痛くなるはず。でも、そんなことない。それに膵炎で黄疸は出ない。なんか変だぞ。なんだろなあ、何て考えてました。
先生も同じだったらしく、今度は腹部をCTで見ることに。これも初めての体験です。
狭いベッドに寝かされ、縛り付けられ、 息を吸え、よし止めろ、よし吐けとなんだかずっとやってたような気がしましたが、別に痛いこともないので、そのうちに終わりました。
で、結果が出るまで待たされて、先生曰く、胆石はやっぱりない。肝臓と膵臓と脾臓が腫れている、と。はて?
取り敢えず入院だなあ、ということになり、その前に点滴ラインを腕に刺され、3階の四人部屋に。この時、個室のほうがいいのでは?という話も出たんです。なんかよくわからないし(伝染病も疑っていた)、様子も段々ひどくなっていたし。
でも、空いている個室がナースステーションからえらく離れているということで、結局は四人部屋の、入って手前の左側のベッドに収まりました。
この時はもうかれこれ午後三時を回っていて、頭痛と胃痛と吐き気は一向に治まらない。ベッドでしばし横になってようと思っていたのですが。
しかし、検査はまだ終わってはいなかったのです。再び階下に連れて行かれ、今度は腹部のMRI、その後造影剤を投与してのCTをこなしました。全て初めての体験です。
MRIはなんだか顔面にヘルメットのようなものを被せられて、輪っかの中へ。ガタン、ゴトンと結構大きな音がしましたね。でも、痛いわけでもないので、閉所恐怖症気味の人でなければ、検査としては悪く無いですよね。
CTの方は造影剤を使うとそれでショックをおこす人もいるらしく、わざわざ、薬を入れたことを告げられ、その後気分が悪くならないかしつこく聞かれました。
予防のためにステロイドを使っているそうなので、ほぼ大丈夫らしいのですが。
検査が終わり、結果が出てきて、先生曰く、やっぱり胆石はない、腹部に異常は見当たらない。胆管がすこし肥厚してるかな?というくらいらしく、私が黄色くなっている確実な原因はつかめないようでした。
ここで先生の名誉のために言っておきますが、私の病気、ワイル病は正式には黄疸出血性レプトスピラ症と言うんですが、必ずしも黄疸が出て、出血傾向になるわけではないらしいのです。実際、私は出血はほとんどしませんでした。
症状は個人差が激しく、筋肉痛をともなう人や肺炎になる人もあるようで、そのため、診断がぶれてしまうことが多いらしいのです。
さらに、とにかく今では珍しい病気ですので、その病院では誰一人ワイル病を見たことがなかったようで、ほかの先生にも尋ねたようなのですが、誰もそれはレプトスピラ症だよ、間違いない、とは言ってくれなかったらしいのです。
さて、残念なことに夕方となり、もう検査はできなくなってしまいました。
私が病院を訪れたのは金曜日、しかも昼すぎ。明日は土曜日、あさっては日曜。二日間の空白。
先生はこの時、急変したらどうしよう、死んだらまずい、(私はまだ50代。女房が同じ病院にいる)と、かなり焦っていたんだそうです。(後日、話してくれました)
そんな先生の苦悩などつゆ知らず、私はやっとベッドで休める、とホッとしていました。
思えば、この時私は髄膜炎にもなっていたようで、要は脳に異常をきたしていたらしく、すごく自分のことを楽観視していました。原因不明と言われても、このまま治らないのでは、とか死んでしまうのではとか露ほども考えませんでした。
熱があって、CRPが高いんだから、抗生物質をバンバン打てばそのうちなんとかなるだろう。あと、解熱鎮痛剤と吐き気止め。それでダイジョブなんじゃない、と思ってました。
実際、その手の薬を投与され、その夜は普通に慣れないベッドでも眠れました。
そして次の日。
気分は爽快。頭痛の胃痛も吐き気も殆ど無い。熱も平熱。
お~、素晴らしい。治療がよく効いておると、喜びました。
さすがすぐに退院は無理だろうけど、この調子で行けば一週間ぐらいで退院できるかな?なんて思ってました。
その様子に先生も驚きながらもすこし安心したようなんですが……。
その日にまた行った血液検査の結果はアミラーゼが下がってはいても黄疸の原因のビリルビンや炎症の度合いを示すCRPは変わらず。むしろすこし増加していました。
そう。具合が良くなったのは見せかけだけで、身体は菌と戦っている真っ最中だったのです。
ではなぜ一旦具合が良くなったのか?それは昨日、造影剤によるショック予防のために打ったステロイドのせいだったのです。
ステロイドはそれほど劇的に炎症から起こる諸症状を緩和してくれるようですね。
しかし、それに気づかなかったため、その日はステロイドの投与はしませんでした。その為、ステロイドの効果が切れてきた午後になると、私は再び熱を上げました。
今度は一気に上昇し、夕方には39.3度。夜には吐き気が強まり、三回ほど嘔吐するようになりました。
前日の朝から何も食べていないので、出てきたのは水だけでしたが、何度吐こうと、胆汁の色にはなりません。やっぱり、胆汁は十二指腸に分泌されてないようだ、と考えながら、ゲーゲーやってました。
これでさらに周りは驚いたようで、とにかく、吐き気止と解熱鎮痛剤と睡眠薬を与えられました。それで幾らかの睡眠は取れましたが、不思議なことに、この日から退院するまで、なぜか必ず午後1時頃と4時頃の2回、目が覚めるようになりました。
これは本当に不思議でした。
次回に続きます。
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思ったよりも体力は低下していたようで、退院して一週間が経つというのに、深夜まで起きていられません。
そんなわけで遅ればせながら、感染記の続編です。
リスクは高かった
全て退院してからネットで集めた情報なんですが、レプトスピラ症は地方病でして、流行地とそうでない所があるのだそうです。
で、調べてみると私の住んでいる県では過去レプトスピラが流行したことがあり、なおかつ、私のいる市はネズミの保菌率が県で最高だったとのことです。
まあ、調査した日付は随分昔で、一概には言えないのだそうですが、ネズミの保菌率がそんな簡単に変動することはないそうなので、多分、私のいる場所はやばい。
かてて加えて、ワイル病のことを調べれば出てくるのですが、罹りやすい職業というのがあります。つまり、職業病でもあるわけでして、その罹りやすい職業に私は30年ほど就いておりました。そう考えると今までよく罹らなかったもんだなあ、とも思えてくる次第です。
運が悪かったわけではなく、なるべくしてなった、そう、これは運命だったのだと、ちょっとポーズか何か付けて、言ってみたい感じですな。
さて、それでは発症の様子です。
忘れもしない、3月15日。”白い一日”をブログにあげている時に、最初の異変に気づきました。
それはゲップ。
逆流性食道炎気味でなおかつ年寄りの私は、胃の入り口が緩んでいて、よくゲップが出ます。しかし、その時出てきたゲップは通常の3倍から5倍増の量。ちょっと尋常ではありませんでした。そのため、今までそんな経験をした覚えがなかった私は、あれっ?とは思いました。
でもそう思っただけでして、ほかに不快な症状はなかったために、さして気にも止めず、その晩、普通に床に入ったのです。
そして、翌朝、起きるとやっぱりすごい量のゲップが出ます。さらに、左上腹部がチリチリと痛みます。
これはなにか変なものを食べたか?そう思い、昨日の食事内容を思い出すのですが、さして思い当たる食品もありません。さらに我慢できないほどの痛みではなかったので、そのうち治るだろうとたかをくくり、薬も飲まずその日は極普通に生活しました。ちなみにお通じも普通で、下痢ではありませんでした。
そして、次の日、症状は一向に好転しませんでした。
大量のゲップと腹痛。そこで試しに食後に胃腸薬を飲み、やり過ごすことにしたんですが、薬を飲んで直ぐは心持ち良くなった気がしますが、暫くすると本の黙阿弥、症状は消えませんでした。
さらに、その晩、何か熱っぽい気がして測ってみると、37.3度。明らかに体温が高いではありませんか。はて?これは?
とりあえず、解熱剤を飲んで休みました。
その翌日、3月18日、水曜日。熱っぽいのは取れず、腹は痛く、大量のゲップ。
私はネットに頼りました。すると出た答えが、感染性胃腸炎。最初に、ノロウイルスの話がでてましたが、吐き気と下痢はない。次に候補に上がったのが、インフルエンザB型。
ここでバラしてしまいますが、うちの女房は看護師をしていまして、彼女がきっとそうだ、インフルエンザB型だと太鼓判を押してくれました。今流行ってるんだと。
そうか、インフルエンザじゃあ、しょうがない。多少だるくて、お腹が痛いが、自営業の辛さ。休む訳にはいかないぞっと、その日も極普通に仕事をこなし、顧客には自分は今インフルエンザB型に感染しているいるからと、注意を促すなどして、一日を過ごしました。
そして寝る前には胃腸薬と解熱剤を飲み、普通にその晩も眠ったわけですが。
次の日。あらたなる異変が私の体に起きておりました。
朝、トイレにいくと、明らかに尿の量が減っていたのです。えっ、こんだけ?って感じです。
ここでかえすがえすも残念なのは、自分が近眼だということです。そして、朝はメガネもかけていない。もし、メガネをかけていたなら、尿の量が少ないために色が濃くなっているのではなく、明らかに黄色みを帯びていることに気づいたかもしれないのです。そうすれば、この日に病院を訪れ、入院の期間がいくらか縮んだかもしれないのですが。
しかし、現実は変だなあ、程度で自分の体の状況を甘く見ていました。
但し、疲労感が激しくなってました。お腹も痛い。心なしか、頭痛までするようになりました。頻回、トイレに行く様になりましたが、尿の量は相変わらずです。
それでも、まあインフルエンザなんだから、と納得してまして、今日は早めに顧客を回って、午後は家で寝ていようと決め、実際そうしました。
そうやって、仕事を終え、半日寝ていましたが、一向に良くなりません。胃腸薬も解熱剤も役立たずとなってました。
そして、異変を感じてから、6日目、3月20日。
お腹の痛みだけでなく、気持ち悪くもなってきました。とても食事を摂る気にはなれず、朝食は抜きで、ベッドに横になり、今日は午前中を休んで、午後になったら顧客周りをしよう、と考えていました。
そんな風に横たわっていると、夜勤から帰ってきた女房が医者に見てもらおうと言いだしました。症状が悪化してきているので、心配してくれたのでしょう。
しかし、インフルエンザだと思っていたし、だるくて動きたくなかった私は、医者に行ってもあまり変わりはないのでは、と考えて一度は断りました。けれど、自分が送っていくからという女房の言葉に甘えることにして、近所の内科医院を訪れることにしました。時刻は既に11時を回っていました。
午前の診療時間ギリギリで病院を訪れ、取り敢えず待合室のソファに座ると、女房が衝撃的な事を私に言いました。
「火消茶腕!あんた黄色いんじゃね!」と。
その日はとてもいい天気で、待合室にも春の日差しが差し込んでいました。
今まで家の薄暗い部屋で寝ていて気づきませんでしたが、陽の光を浴びた自分の右手、明らかに黄色いのです。黄疸だ!
ちなみに黄疸というのは、赤血球が老化して壊れるときに出る色素を、普段は肝臓が処理して胆汁として排泄しているのですが、それがうまくいかなくなり、色素が体中をめぐるようになる病態でして、その色素(ビリルビンといいます)が黄色っぽいので体中が黄色みを帯びるのです。
ここでインフルエンザB型仮説はもろくも吹っ飛びました。インフルエンザで黄疸になるなど聞いたことがない。
何?胆石?肝炎?溶血性疾患?胆石ならすごい腹痛があるとか聞くけど、そんなに痛くはないよな。熱があるから肝炎か?溶血性疾患なら血尿になるはず。そんな症状なかったよな?
思考がぐるぐる巡ります。
受付の看護師さんが”どうされましたか?”と聞いてきたので、最初は熱があるんですが、という予定でしたが変更。黄色くなっちゃいました、と訴えました。
後から思うにこの時既に私は熱に浮かされていたようです(計ったら体温は38.6度)。思いがけない病気になった、これはいい経験になる、とか女房に軽口を言ってました。
少しして紙コップを渡され、採尿するように言われました。
トイレに行って、自分の尿を見る。ついでに、鏡で自分の顔を見る。尿も白目の部分も明らかに黄色くなっている。
こりゃ黄疸に間違いなかろう。確信を持ちました。
紙コップを渡し、その後先生に呼ばれ診察室へ。
色々聞かれ、血を採られ、腹部エコー。
エコーは初めての経験でした。
ジェルを塗られ、機械の端末でお腹をぐりぐりされました。
それが終わり、血液検査の結果を待つことしばし。先生のご宣託は、「エコーの結果、胆石じゃないね。血液検査の結果では炎症反応が強い(CRPという数値がそうなんですが、15以上は重症でして、その時の私は16)。
うちでは無理だから総合病院に行って。紹介状書くから」でした。
ここで、私はすこし躊躇しました。なぜなら、我町の総合病院は女房の勤め先でもあるのです。
わがまま言いにくいじゃん!と、思ったのですが、そんな贅沢を言っている場合じゃない雰囲気があり、仕方なく私はその病院を後にし、女房とともに紹介状を手にして、総合病院へと向かったのでした。
続く
次回はいよいよ入院編に入りたいと思います。
なんか長くなりそうだなあ。
テーマ : 雑記
ジャンル : 小説・文学
