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人と猫の幸福のために

 

 視線の先にはゲージの中でじゃれあっている4匹の子猫がいた。
「この子達が?」
 男が尋ねた。

「ええ、そうです。この子達はアレルゲンを、正確にはFel d 1だけですが、それをほぼ分泌しません」
 この貴重な猫を所有している私は少し誇らしげに答えた。
「この子達なら、猫アレルギーの人でも安心して飼うことができるはずです」

「それはすごいですね」
 相手はゲージを覗き込んだ。
「見た限り、どの子も健康そうだ」
 そう言ってから顔を上げた。
「一体どうやったんですか?」

 当然の疑問だと思い、私は答えた。
「いや、偶然のたまものなんです。本当にたまたまこの子の親となった猫を発見しましてね。その子は全くFel d 1を分泌していなかったんですよ。多分、突然変異なんだと思いますが、その子の親については良く分かってないので、はっきりは言えませんけれど」

「偶然に発見したと?よろしかったら、どんな風だったのか教えていただけませんか?良く気付きましたね」
 相手が興味ありげな目をして言った。

「非常に幸運だったとしか言えないのですが、実は私は以前、野良猫の保護活動をしていまして」
「野良猫!」
 相手は驚いたように言った。

「ええ、その子達の親は野良だったんです。それで地域猫として暮らすにしても、去勢したほうがいいだろうと皆で捕獲したんですが、その時のメンバーの一人が猫アレルギーだったんです」
「野良猫の保護活動のメンバーが猫アレルギー持ちだったんですか?それはまあ、奇特な人物だったんですね」
 相手はへえという顔をした。

「まったく、今考えるとそうですね」
 私は笑った。
「まあ、そこでその人にこの猫に触れたのに不思議と症状が出ない、ということを聞かされまして、それで興味を持ったんです。で、調べたら、普通の猫なら分泌しているはずのFel d 1が検出されなかった、という訳です」

「なるほど!」
 うんうんと相手はうなずいた。
 それからおもむろに私に言った。
「ところで、あなたは獣医師でしたよね」
「ええ」
 私は答えた。

「それで大学の卒論のテーマが猫アレルゲンだったんですよね?」
 よく知っているな、と私は思った。ネットにそんな情報が出回っているのだろうか?
「ええ、それでまあ、この子たちの親に会った時に興味が湧いた訳で、調べるのにそれほど苦労なくできました」
 私は答えた。

「以前は都心の方で開業なさってましたよね」
 相手がさらに尋ねてきた。
「ええ、3年ほど前まで犬猫病院を開いてましたが、閉めてしまいました」
 何が言いたい?
 私は相手を見つめた。

「飼い主さんとトラブルになったのが理由ですか?」
 私は少し驚いた。
「どこでそれを?いや、最近のネットならすぐに分かるか。悪評はすぐに広まる」
 私はため息をついた。
「ええ、知っての通り飼い主に訴えられまして、それでそこではやりづらくなってしまって」

「そのトラブルというのが治療に来た猫を逃がしてしまった、というのでしたね」
 相手は私が嫌がっていると分かってるはずなのに話を続けてきた。
「そうです。つい油断して空いていた窓から逃げられてしまって。方々探したんですが見つからずじまいで、飼い主に訴えられて、多額の賠償金を支払う羽目になりましたよ」
 私はは情けない顔をして見せた。

「でも、そのための保険に入っていたんではないですか?」
 よく知ってるな?こいつ、いったい何者だ?
「よくお分かりで。犬猫病院の経営者ならその手のトラブルのための保険には入ってるもんなんでして、それで賠償金を払う時、多少なりとは助かりました」

「ところでその逃げ出して見つからなかった猫ですが、オスのトラ猫でしたよね」
「ええ」
 私は恐怖した。知ってるのか?

「そして、この子達の父親もトラ猫ですよね」
 私はしばらく黙った。しかし、相手も黙ったままだ。
「何が言いたいんです?」
 私はやっとそう口にした。

「あなたは病院を閉めた後、ここに越してきて、そしてこのアレルゲンフリーの猫たちを生産するようになった」
 私は否定も肯定もしなかった。

「あなたは開業していた間、猫が来院したら無断でアレルゲンの検査をしていたんじゃないですか?どこかにFel d 1を作らない猫が存在するかもしれないと考えて」
 私は答えを拒んだ。

「そして、ついにその猫を見つけ、自分のものにしたいがために、猫が治療中に逃げ出して行方不明になってしまったことにした」
「証拠はあるんですか?」
 私はやっとそう言い返した。

「証拠?別にありません。証拠は必要ないと思うんです」
「なに?」
 私は身構えた。次に何を言ってくる?

「実は私も犬猫病院の開業獣医師でして、私も大学で猫アレルゲンの研究をしていました。そして私も今、Fel d 1を作らない猫を所有しているんです」
 意外な言葉に私は驚いた。
「それじゃあ、あなたも、その、治療中の猫を逃がしてしまったんですか?」

 私の問いに相手はかぶりを振った。
「いいえ、正式に譲り受けました。その子の飼い主一家が不幸にあいまして、引き取り手を探していたので」
「そうですか」
 私はうなずいた。こいつは私よりまともなのか?

「まったく、最初にその子の譲渡を希望したときに、素直に応じてくれればよかったんですがねえ」
「はあ?」

「私のところにいるのはメスなんです。あなたのところの猫と交配できれば、まったくFel d 1フリーの子猫が誕生すると思うんですよ。協力してくれますか?」

 相手はにっこりと笑った。
 これは断るわけにはいくまい。
 私は大きくうなずいた。
 私たちは人類に多大なる貢献をもたらすだろう。

終わり
 
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父親殺し



「しかし、理論的に可能かどうかは置いといて、自分の父親を殺せるもんかね」
 俺は疑問を呈した。
「実際に親を殺した人間は、過去にたくさんいたでしょう」
 若者は即座に答えた。
「まあ、それはそうだが」
 俺は相手の顔をちらっと見た後、グラスをあおった。

 ここは俺の行きつけのバー。
 今日は人に会う約束をしていたのだが、待ち合わせにはまだ余裕があった。そこで一杯引っかけようとこの店に立ち寄り、そしていつものように隣の席の男に声をかけ、よもやま話に花を咲かせていたのだ。
 そんな中で出た話題が父親殺し。実はそんな物騒な内容ではなく、SFのテーマの一つで、タイムトラベルで過去に戻り、自分の父親がまだ子供のうちに殺してしまうことは可能なのか、というタイムパラドックスについてしゃべっていたのだ。

「そりゃ、親から何の愛情も受けられず、逆にひどい目にあわされたりしていたら、殺してしまおうと思ってもおかしくないさ。けれど、この場合、まだ親になっていない、たぶん若造の姿をしているわけだろう。自分が恨んで憎んでる男の面影はあるだろうが、その姿を見て殺意がわくだろうか?」
 俺の問いに相手は答えた。
「難しいかもしれませんね。見ただけで憎らしそうな感じなら別でしょうが」

「だろう」
 俺は我が意を得たり、と思った。
「おれはSFに詳しくないのでどんな物語で父親殺しが出てくるのか知らないけれど、恨みを持って殺すにしろ、知的好奇心だけで殺すにしろ、親殺しをする人間の性格とか状況をうまく設定しないと、読むほうで感情移入しづらいと思うんだが」

「なるほど」
 相手は納得したようだった。
「確かに自分が生まれる以前の、若い頃の父親を殺すのは心理的ハードルが高いと私も思います。まあ、しかしそこらへんをうまく料理している話はありますよ」

「どんな?」
 俺は聞いた。
「実に単純なことで、父親を殺すのでなくその祖先を狙うんです」
 相手は答えた。

「祖先というと、祖父とか曾祖父とかかな?」
「そうですね。私が知ってる話ですが、主人公は自分のおじいさんの前に現れます」
「おじいさん」
「ええ。主人公は死刑囚となった母親が獄中で産んだ子で、父親が誰か母親にもわからない、そんな子でした。
 彼は生まれてすぐに施設に入れられ、そこで育ちます。その間に性的虐待を受けており、施設を出た後もそのトラウマに苦しみ、ついに虐待した張本人、施設の院長を殺してしまいます。そして逃げている途中でタイムトラベルすることになるんですが、父親が不明なので母親に会いに行きます」

「なるほど、まずは母親か」
「そうです。で、そこで母親の若いころの様子を目撃するのですが、彼女は家族にひどく冷たくされていました。なぜかといえば、彼女は彼女の母親が不倫をしたあげくできた子供だったのです。彼女が学童期にそれが発覚し、家庭は崩壊、母親は行方不明となり、彼女は母方の祖父母に引き取られました。しかし、二人にかわいがられることはありませんでした」

「それで母親は死刑になるような犯罪をしてしまうようになったと」
「そんな感じですね。それで主人公は母親ではなく、母親の実の父親、彼女の母親の不倫相手に会いに過去に飛ぶんです」

「そこで、主人公から見れば祖父にあたるその男を殺すわけだ。確かにそんな男なら殺すことに罪悪感が沸きにくいかもな」
 俺はそう言った。
 すると相手は言った。
「いや、別に主人公は祖父を殺しはしないんです」

 俺は驚いた。
「えっ、殺さないの?じゃあ、なんで祖父に会いに過去に行ったのよ」
 相手は答えた。
「睡眠薬を飲ませるためです」

「睡眠薬?それで殺すんじゃなく?」
「ええ、ただ眠らせるだけなんです」相手は言った。「ただし、眠らせるその日は、主人公の祖母が主人公の母親を授かるはずだった日なんです」

 なぜか急に睡魔が襲ってきた。
「その夜の逢瀬を邪魔さえすれば、主人公の母親は生まれない。不倫関係で頻繁に会っていたわけではなかったので、主人公の祖母が主人公の母親を身ごもったと思われる日は意外と簡単にわかりました。祖母の元旦那さんが細かく調査していたので」

 遠くから声が聞こえてきたが、それっきり俺の意識は飛んだ。
 気づくと、俺は公園のベンチで寝ていた。バーで飲んでからかなりの時間がたっていた。スマホはどこかで落としたらしい。会うはずだった彼女にはその夜は会えなかった。

 翌日、もう一度バーを訪れ、昨夜の自分の様子を聞いてみると、若い男と話してるうちに酔いつぶれ、その男が俺を介抱しながら店を出て行った、らしい。
 若い男はこの店には昨夜初めて来た客だそうだ。俺は何とも言えない気持ちになった。

 

「と、言うような経験が俺にはあるんだ」
 男は言った。
「だから?」
 私は聞いた。

「だから?だからその時思ったのさ。絶対に不倫相手を孕ませる様な真似はすまい、とね。バーの一件以来、俺は徹底的に避妊するようになったんだ。だからお前が不倫相手が生んだ俺の息子だなんてありえない。誰に聞いたか知らないが、そいつに騙されているんじゃないか?」

 訳のわからない言い分をへらへらと話す相手に、私はかっとなり、思わず思いっきり相手を殴りつけた。
 相手は吹っ飛び、テーブルの角に頭をぶつけ、動かなくなった。息もしていないように思う。

 私は父親殺しをしてしまったのか、それともまだ生きているのか、それとも本当に目の前に倒れている男は私の父親ではないのか。
 救急車を呼びながら私は考えた。

 終わり

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コビートウェンティパート9




「で、奴はしゃべったか?」
 椅子に座ったまま、上官が聞いた。
「いえ、残念ながらまだです」
 机の前の直立不動の部下が答えた。
「依然として、自分一人でやった、と言い続けております」

「馬鹿な……」
 部下の言葉に上官はあきれた顔をした。
「お前たちはちゃんとやつを痛めつけたのか?」
 彼の疑念のこもった声に、部下は青ざめた。
「もちろんであります。定められたやり方を忠実になぞり、毎日休みなく拷問をしております。しかし、五日目の今日になっても、奴は黒幕について口を割らないのです」

「むーっ、かなりしぶとい相手というわけか。いったいどこの組織の工作員なのやら?」
 上官は首をひねり聞いた。
「身元調査はどうなってる?」
「はっ、それにつきましては依然調査継続中ですが、生物兵器研究所に提出されていた本人の身上書と、違ったところは一切見つかっておりません」
 部下は申し訳なさそうに答えた。

「奴はたった一人で、研究所からウイルスを持ち出してばらまいたと言ってるんだよな?」
 上官は少し考えた後、また、部下に尋ねた。
「どこぞに雇われていないとすれば、なぜそんなことをしたのか、何か理由を言ったか?」
 部下はかぶりを振った。
「いいえ、それにつきましても固く口を閉ざしており、自分がウイルスを漏洩させたこと以外、何もしゃべりません」

「くそーっ」
 上官は苦虫を食い潰したような顔をした。
「それじゃ何も進展なしか。何としてでも口を割らせねばな。奴に身内はいるか?」
 部下は答えた。
「奴に妻子はおりません。両親もすでに亡くなっているようです」

「天涯孤独の身か。ではそっちは無理か」
 どうやら身内を拷問にかける、と脅すことで口を割らせるつもりだったらしい。上官は落胆した。
 それを見て部下が言った。
「いえ、そうでもありません。奴には妻子も両親もおりませんが、弟が一人います」


「弟?」
 上官は聞いた。
「奴とは仲が良いのか?」
「現在のところ、特に仲が良かったとか険悪だったとかという情報はありません。ごく普通に連絡は取り合っていたようですが」
 部下が答えた。

「ふむー、試しに引っ張ってみるか。その弟やらは今どこにいる?」
 部下は顔を曇らせた。
「それが現在は外国におります」

「外国?くそっ、間の悪い。で、そいつは近々こっちに帰ってくるのか?」
 部下は一瞬返事をためらってから言った。
「それが、弟は半年ほど前から今滞在してる国で治療を受けている最中でして、リハビリやらなにやらであと数か月は帰ってこないかと」

「なんだ、そいつは病人なのか」
「はい。膝を怪我しました」

「膝の怪我?」
 上官は驚いた。
「たったそれだけのことで外国まで治療しに行ったのか?」
 当然と思える上官の疑問に部下は答えた。
「はい、奴の弟はわが国でトップクラスの成績を収めているある競技の選手でして、そのため、その手の怪我においては世界一の権威といわれている医者のいる下で治療を受けいるようなのです」

「なるほど」
 上官はそういうと黙ってしまった。部下は机の前で直立不動のままだ。
 しばし考えをめぐらせた後、彼は部下に命令した。
 
 命令を受けた部下はすぐに部屋を出て行き、数時間後、再び報告にみえた。
「ご命令通りの内容を奴にほのめかしましたところ、あっけなく吐きました」
 部下は驚きの表情を隠さなかった。

「やっぱりそうだったのか」
 上官は満足にうなずいた。
「しかし、このまま上に報告していいものやら、考え物だな」
 上官の言葉に部下が聞いた。
「何か不都合がありますでしょうか?」

「上司たちが信用するだろうか?」
「それはわかりますが、狂人の仕業ということなら、信用するのでは。実際、奴を精神科の医者に見せるべきだと思います。怪我した弟がオリンピックに出られるよう、大会の開催の延期を狙って世界中をパンデミックに落としれるなど、狂人の発想としか思えません」

「なるほどそうかもしれん。よし、狂人がしでかしたこととして処理しよう」
 上官は決心した。
「それで質問なんですが」
 部下が言った。

「なんだ?」
「さっき、奴に伝えて来いと言われた、今回のオリンピックの中止、延期ではない中止決定は本当なんでしょうか?」
「いいや、まだ決まってはいない」
 上官は答えた。
「けれど奴が簡単に信用するほど、その雰囲気は濃厚だよな。さてどうなるか。奴の弟が無事出場を果たすのか、来年が楽しみだ」

 上官はくすくす笑った。

終わり

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コビートウェンティパート8



「殺された?」
 男が驚いて言った。
「何を馬鹿なことを。キュウは事故で死んだんだ。酒をいっぱい飲んだ上に、ハンドルを握って、高架橋から落っこちちゃってね」

 その言葉にキュウの妻は怒って言い返した。
「本当にそう思っているの?タン。あなたはキュウの昔からの友達だったんでしょう。だったら知ってるはずよ?夫はお酒を飲むことはめったになかったし、飲んだとしてもほんの一、二杯。深酒は絶対しなかったってことを。それに、運転はいつも慎重で、スピードも控えめだった。それが飲酒運転のあげく自損事故で死亡するなんて信じられる?」

 その言葉にタンはうなずいた。
「ああ、確かにキュウはわけもわからないくらい酔っぱらって、自動車事故を起こしてしまうようなやつじゃあなかったよ。けれど、人間、絶対ということはないだろう?何らかの拍子に気に入った酒が見つかって、つい飲みすぎてしまい、そこで理性が飛んでしまって運転して帰ろうとし、そして運悪くハンドル操作を誤って、橋から落ちてしまうことも、絶対ないとは言えないじゃないか」

「確かにそれはそうだけど」
 そう言いつつも、彼女は納得がいかないようだった。
 そこでタンは彼女に聞いた。
「キュウが死んで半年になる今になって、なんでそんなことを言い出したんだ?やつの死に不審な点があると思っていたなら、なぜすぐに警察なり、それこそ僕になり言わなかった?」

 タンの問いに彼女が答えた。
「突然の夫の死で私はすごく混乱して、最初は何も考えられなかった。夫の亡骸を見せられ、それはひどいありさまで、そして警察から自損事故だと説明を受けても、ああ、そうなんだ、としか思えなかった。
 でも、半年が過ぎて、夫の死後のこまごまとした手続きも終わり、やっと落ち着いて考えられるようになってみると、どうしてもあの真面目で律儀な夫が、酔って車ごと橋から転落するとは思えないの。絶対におかしい」
 俯きながら思いつめた声で妻は言った。

「それにしても」
 タンが言った。
「殺された、というのはいくらなんでも飛躍しすぎでは?キュウは医者という職業柄、患者から恨みを買うことはないとは言い切れないけど、それでも普通、殺されるほど恨まれることはそうそうないだろう?それとも何か心当たりがあるのかい?」

 タンの問いに女が答えた。
「実はひょっとしてということがひとつだけあるの」
 そう言って、タンを見つめた。
 タンは黙って女が話すのを待った。すると女は遠くを見つめるようにしてしゃべりだした。

「随分前のことだけど、夫がある患者の話を私に話してくれたことがあって。もちろん守秘義務があるのでどこの誰ということは一切言わなかったけれど、かなり珍しい症例を診た、って」
 ここで一旦女は間を置いた。今は亡き夫のことを思い出しているのであろう。それからすぐに女は話を続けた。
「その手の話は私が看護師だということもあって、夫は興味深そうな症例に会うと、よく私に話してくれていたの。それで、その時、夫が話してくれた珍しい症例というのが、味覚障害を伴う発熱だったのよ」

「えっ?」
 タンが驚いて言った。
「まさか?」
「ええ、いま世界中ではやっているコビートウェンティの特徴的な症状と一緒」

 少しの沈黙の後、タンが言った。
「じゃあ、その患者はコビートウェンティに感染していたということなんだろうな。しかし、それでなぜキュウが殺される?」

 女は答えた。
「その患者の話を聞いたのは、本当に随分前で、確か去年の9月頃のことなのよ」
「去年の9月!コビートウェンティが流行る3か月も前か!」

 タンが考え込むと、キュウの妻は言った。
「たぶん、夫が診たその患者こそがコビートウェンティの最初の感染者だったのよ。その事実を誰か、おそらく、この国の上のほうの人物が隠したくて、夫を殺したんだわ」

 女の怒気を含んだ声にタンが手で制して言った。
「いや、ちょっとまて!それは飛躍しすぎじゃないか?確かに今言われているよりずっと前から患者が確認されていたことがよその国に知れれば、我が国の防疫体制の甘さをつつかれるかもしれない。けれど、そんなことで一般市民であるキュウを亡き者にするだろうか?第一キュウ一人の口をふさいだとして、病院にはカルテとかあるわけだし、よそからだって漏れるだろう」

「夫だけじゃなく、ほかの人も口をふさがれているかもしれないわ」
 女が言った。
「なに?そんな心当たりがあるのかい?」
 タンの問いに女はかぶりを振った。
 タンはあきれ顔で女を見た。
「憶測でものをいうのは危険だ。いいかい。今の話はほかの誰にも言っちゃ駄目だ。本当だったら君も危ない。約束してくれ。
 けれど、君の話で僕もキュウの死に少し疑問が浮かんできた。だから、僕なりに調べてみる。何かわかったら必ず連絡するから」

 そうして二人は別れた。

「はい…。はい…。ええ、患者が生物兵器研究所の職員だったということを彼女は知らないようです。はあ、たぶん。他言はしてないようです。
 えっ?ええ。いや、彼女は飲酒しませんし、車の免許もないので……。はい、別の方法ですね。わかりました」
 タンは電話を切り、深くため息をついた。

終わり

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コビートゥエンティ パート7




「およそ医療というものは資本主義社会で行われている自由競争とは相容れないものなんだ」
 大きなデスクの奥に座っている男が、その手前に立っている若い男に言った。
「と、言いますと?」
 若い男は尋ねた。

 年上の男は軽いため息をつくと言った。
「医療は自由な市場の形成とか公正な取引というものがまず望めないからだ」
 そう言い切っていったん間を置き、それから男は続けた。

「そういうものは買っても買わなくてもいい、別に今すぐ必要とはしない商品でなら通用するだろうが、切羽詰まった絶対に必要な商品では無理なんだ。
 別に今すぐ必要としないものならば、高いと思えば買わなければいい。すると、売る方は買ってくれそうな値段まで下げるべきだろうか?と考える。
 そこでは売り手と買い手は対等で、その商品の適正な価格を決めるメカニズムが働く。それが自由市場での取引だ、と思われているが。
 しかし、医療関係の商品のほとんどは、”高いから買わなくていいや”とか、”安くなるまで待ってから買う”、というわけにはいかない。そうだろう?」
 年上の男が聞いた。

「ええ、確かに」
 若い男が言った。
「自分や大切な人の命や健康に値段はつけられないですものね」

「そう、しかし資本主義はあらゆるものに値段をつける。本当に値付けしていいのか?というものにまでな」
 年上の男は苦虫を潰した顔をした。
「ところで君は前回のパンデミックのことを覚えているかい?」

「前回というとコビートゥエンティ感染症のことですか?あのとき、私はまだ子供でしたので、詳しいことはあまり。ただ、大人たちが随分騒いでいたのは覚えています。マスクをするように口を酸っぱくして言われましたね」

「ああ、そうか、そうだろうな」
 年上の男が言った。
「君ぐらいの年齢ならそのくらいしか記憶にないのかもしれないが、コビートゥエンティが流行った当時、私はこの会社に入社したての若造だった。それでも、あのときの社を揚げての熱気は感じていた。いち早くコビートゥエンティのワクチンを開発し、世界を救おうという使命感みたいなものが、会社全体を包んでいたんだ。
 あの頃は世界中の専門機関でワクチン開発が試みられ、百数十種類もの試作品ができた。しかも、早いものでは実に半年で製造にこぎ着けたんだ。みんな本当に頑張ったんだよ」
 年上の男が遠い目をした。それから
「そしてどうなったと思う?」と、皮肉な笑いを向け若者に言った。

「どうって、有効なワクチンが開発され、世界中に行き渡って、コビートゥエンティは終息したんじゃなかったですか?それとも、世界のどこかでまだくすぶっていましたっけ?」
 若者が尋ねた。

「いいや、その通りだ。ワクチンは世界中の人間に投与され、コビートゥエンティはこの世から消滅したよ」
 年上の男は言った。
「ただし、その課程が問題だったんだ」
 やや怒気を含んでいる。

「何があったんです?」
 若者が聞いた。
「多数の会社が種々のワクチンを作ったが、たった一回投与するだけで、二度とコビートゥエンティに罹らないという優れた効力を持ったものが出来、それが多くの専門家に支持された。
 そのワクチンをなるべく早く、すべての人々に注射できるようにするために、ワクチンを開発した会社は、総力を挙げ、増産体制に踏み切った。工場を新設し、従業員も増やした。
 しかし、そのワクチンには一つだけ欠点があったんだ」

「欠点、といいますと?副作用ですか?」
 若者は聞いた。
「それは優れている分、ほかのワクチンより高価だったんだ。値段が高かったんだよ」
 年上の男が吐き捨てるように言った。

「なるほど」
 若い男がうなずいた。
「じゃあ、その優れたワクチンは全世界には普及せず、別の安価なワクチンが使われたんですね?」

 その問いに対し、相手はかぶりを振った。
「いいや、そのワクチンが世界中で使用された。なんと言っても、一回投与で済まされるんだ。こんなにいいことはない」

「じゃあ、多少高価でもそのワクチンは売れまくったわけだ。作った会社は大もうけだったでしょうね」
「いいや」
 男はまたかぶりを振った。
「そのワクチンを製造した会社は一回つぶれかけた」

「はあ?なぜですか?」
 意外な言葉に若い男は驚いた。
「分からないか?」
 男は皮肉な笑いを浮かべた。
「あの時、世界中の人間がそのワクチンを打ってもらうことを望んだ。それは確かだ。しかし、ただでだ」

「ただ?無料で、ってことですか?」
「そうだ。はっきり言って、コビートゥエンティの流行は災害と同じだと人々は考えていた。しかも人災に近いと。つまり、自分たちは被害者であり、誰か、この場合は大抵、政府だが、その誰かが自分たちを救うべきだ、と思ったんだ」

「なるほど。まあ、気持ちは分かりますね。それなら、公衆衛生上多大な利益があるんですから、国でワクチンを買い上げて、人々に無料で接種すればいいだけでは?」

「まあ、普通の時だったらな」
 男が言った。
「しかし、コビートゥエンティの流行により、世界経済は深刻な不況に陥り、新興国はより厳しい財政難となっていたんだ。そのため、新興国の間で、製薬会社はなるべく安く、出来ればただでワクチンを提供してくれるよう、いや、あの時は当然そうすべきだ、という世論が沸き起こってね」

「そうだったんですか」
「しかも、一回投与で終生免疫が出来るワクチンだ。一度大多数の人間に使われた後は、お役御免となり一切売れなかった。新設した工場はすぐに閉鎖、従業員も多数解雇された」

「だからですか」
 若い男が言った。
「コビートゥエンティが流行った時、こういう標語が盛んに言われた。”正しく怖がる”というやつだが、私は現状に鑑み、正しく怖がっているんだ」

「それで、今回開発したワクチンの製造法をあの国の研究員に秘密裏に譲ったんですね」
「ああ、コビーフォーティワンの世界的流行については、どう考えてもあの国に責任があるだろう。懺悔の意味もかねて、一回投与で大丈夫なワクチンを世界中に格安で配る義務があろうというものさ。
 さあ、さっそくマスコミにリークしてくれ。発生源のあの国が素晴らしいワクチンの開発に成功した、とね」

終わり

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火消茶腕

Author:火消茶腕
ジャック・リッチーの短篇集を読んで、その読みやすさに感銘を受けた火消茶腕です。

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